ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

ろくでなし子問題についての備忘録

現在ろくでなし子はふたつの行動をしている。

1. 女性器はわいせつでないと主張する

2. 表現の自由の規制に反対する

ろくでなし子自身は1と2の区別があまりついてないみたいだけど、これらは本来別のものであり、区別して主張したほうが理解されやすい。元々のメッセージは1だったけど、それが原因で逮捕されたから、2を合わせて主張するようになった。逮捕・拘留なんてすごいトラウマになるだろうから、その気持ちはよく分かるんだけど、そういう愚痴を言うのは友だちレベルにとどめといて、パブリックには1のメッセージを伝えることを主目的にすべきであろう。

2を主体にするなら、それは「活動家」のやることである。本人は「芸術家」だと言ってるんだから、1を主体にするべきだろう。

 

僕も、人に伝えたいことがあるから、流通に乗るような創作をしている。もしも表現方法が不適切と言われたら、僕ならどうするだろう。そりゃ表現の自由が規制されることに怒ったり悲しんだりするだろうけど、それは個人的な感情であり、それを世界に向けて発信したりはしない。自分がほんとうに伝えたいメッセージが伝わるように、気を取り直して、工夫して創作するだろう。

というわけで、ただ反対するだけの人にはほんとのメッセージがないのではないか・僕はそんなことをしている暇はない、というのが僕の感想なのである。

 

ときに去年、愛知県美術館で、性器丸出しの写真展があった。警察に怒られて、展示方法を変えることとなった。写真の性器の部分を布で覆ったり、半透明の紙で覆ったりした。このとき、彼らには3つの選択肢があった。(A)そのまま展示し続けて逮捕される・(B)展覧会を中止する・(C)指摘されたところだけを隠すよう修正する、の3つだ。

Aを選んだら、ろくでなし子とおなじだ。抗議の意味でBを選ぶ、というのも十分に考えられた。しかし彼らはCを選んだ。僕もやはり、Cを選ぶだろう。Cの方法でもメッセージは(少なくとも部分的には)伝わるし、不自然であからさまな修正が、弾圧への抵抗という無言のメッセージを伝えるからである。

「時代に逆行する」

 

こんな記事があった。


時代に逆行する曽野綾子氏のコラム 多様な民族を受け入れる姿勢こそが日本に必要 | Kosuke Takahashi

 

このウェブ記事は、「曽野綾子は時代に逆行してるからダメだ」と言っている。しかし、よく考えてみてほしい。世の中にはクリエーター的な人たちがいる(たとえば作家や芸術家、大学教授だって含めてほしい)。そういう人たちにとってある意味、「時代に逆行してる」というのは褒め言葉になり得るのだ。...

もちろん僕は曽野綾子の言説がきらいである。それは、人種差別というのが「時代や風潮に関係なく本質的に」ダメなことだから。しかしこのウェブ記事の筆者は、「時代に逆行してるから」ダメと言う。これは僕からの揚げ足取りではなく、根本的な間違いを指摘している。

逆に考えれば、時代の流れに乗っていたらイイのか?ということになるからである。

ときに、2014年のヨコハマトリエンナーレで気になる展示があった。そこには、日本の戦時中、有名な文豪とか詩人とか芸術家とかが、率先して戦争賛美・軍国主義賛美をしていた証拠が展示されていた。時代の流れに乗ったこれらの人たちは汚点を残した。それは、「時代や風潮に関係なく本質的に」ダメなことをしたからである。

というわけで、ハフィントンポストにジャーナリズムの一端を担ってる自負があるのなら、「時代や風潮に関係なく本質的に」良いかわるいかで批判をしてほしい。それがクリエーターに対する正当な批判である。

ちなみに、ビジネスや政治に対する批判なら、「時代に逆行する」という理屈も成り立つ。ここは混同しないでほしい。

思えば、科学でも芸術でも、時代のマジョリティをくつがえすような人がすごいのである。どんどん時代に逆行していきたいものである!

ミッフィーが気になる

ミッフィーが気になる。おっさんなのにたいへん恥ずかしいことだが。キャラとしての完成度はたいへんなものだと思う。形も色も、このうえなくすばらしいものだと思う。たまに東京駅に行くと、キャラクターショップを素通りできないという悲しいサガも持っている。

ミッフィーは擬人化された白いウサギであり、もちろん両親も、学校のお友達もほとんどは白ウサギなのだが、メラニーという黒ウサギも登場する。こうやって体の色の多様性に配慮するというのも海外のキャラっぽいと思う。ちなみにミッフィーとお友達は見た目でほとんど判別不能なため、メラニーというキャラは貴重ともいえるだろう。さらに、クマやブタも擬人化されて登場する。

しかし、イヌだけが擬人化されていないということが非常に気になる。スナッフィーという犬が登場するのだが、これが、知能も扱いも犬なのである。ウサギのミッフィーはちゃんとしたおうちに住んでいて、お父さんは自家用車も持っている。しかし犬は犬小屋に住んでいる。四足で歩き、口も利けない。ウサギに飼われている犬。「公園で遊ぶときは、気をつけなきゃダメよ」なんてミッフィーにたしなめられる犬。なんだか気になってしまう設定なのである。

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アユタヤから鉄道で北へ向かう。もうひとつの世界文化遺産であるスコタイの遺跡を訪れるためだ。しかしその旅にはいろんな落とし穴があり、その体験は、「わけのわからない人生がいい」という私がぼんやりと目指すところへゆらゆらと運ばれていくことになった気がする。ちなみに私は立派な人になりたいとか何ごとにも動じない悟りを開きたいみたいな大それたことはぜんぜん考えてなくて、おもしろいことをおもしろいと感じられるような、そんな人になりたいのである。

 最初の落とし穴は鉄道の遅延である。それ自体はガイドブックやネットの情報で教えられていたので特におどろくに当たらない。アユタヤの駅はそれなりに風通しのよい日かげなので、のんびりと露店のマンゴーなどを食べながら待ってるだけでよいのである。そしておよその到着時間を駅員が黒板に書いてくれるので、精神的な負担は少ないのである。

 さて鉄道に乗り込む。私はちょっと奮発して2等の座席を取ったので、それなりに快適な環境である。なぜか食事も出てくる。しかしそのレトルトパック的な食物は死ぬほどまずい!食べ物に好ききらいのない私を持ってしても、食べられるレベルに達していなかった。タイの食べ物はどこでなにを食べてもおいしいはずなのに、これはきつかった。たぶんレトルトパックの技術の問題なのかもしれぬ。

 2等車はこわいくらいエアコンが効いている。バックパックから長そでのパーカーを出してしのぐ。しかし発車して1時間くらい経つと、だんだん気温が上がり始める。車両のエアコンが唐突に故障したのである。今度はサウナ状の車内でひたすら耐える。近くの駅に停車して修理を試みているようだが、1時間経ってもぜんぜん直らない。仕方ないのでそのまま発車するようだ。しばらくしたら車掌がやってきて、きっぷを見せろという。そしてきっぷになにかタイ語で書き込むが、なんのことかもちろん分からぬ。時刻表の2時間遅れで目的地のピサヌロークへ到着。駅員にそのきっぷを見せると、きっぷ売り場へ連れて行ってくれた。そしてきっぷ売り場で、なぜだか150バーツをもらう。そうか、これはエアコンが故障したための払い戻しみたいなもの?たぶんそうなんだろう。

 ちなみにタイ人はお金への執着がとても薄い気がする。この翌日バスに乗ったときも、だまってたらぜんぜん分からない10バーツの払い戻しがあったし、食堂のおばちゃんがカタコトの英語で「ワンフィフティー」と言ったように聞こえたから「ワンフィフティー?」と確認すると、「ワンフィフティーン」と訂正してくれる。外国人観光客の僕が勘違いしたんだからだまって150バーツを取ればよいのに、正しく115バーツと言うのである。このときは僕も間違っていて、たとえ「ワンフィフティー」と聞こえたとしても、「ワンフィフティーン?」と安いほうの選択肢を使って聞くべきなのである。これは発展途上国における鉄則で、さもないとこれ幸いと高いほうの料金をふんだくられるのである。しかしタイは違った。この正直さはすばらしいと思った。

 ピサヌロークのゲストハウスへチェックイン。日本円にして1500円も払えば、エアコンとホットシャワー付きという快適な宿に泊まれるのだ。さて夕食は何を食べよう。近所にレストランが見当たらないので、仕方なく駅前の屋台街に行く。屋台の衛生状態を危惧するヘタレ旅行者の僕は、屋台では安全そうなものしか買わないようにしていたのだが、このときは仕方ない。なるべく清潔な屋台から、なるべくちゃんと火が通ったごはんものを買って食べる。そして、肉を竹串に刺して焼いたやつを何本か買う。竹串ごと火であぶってるんだから当然衛生的である。油ぎとぎとのお皿を介さずに食べられる食品を選ぶのである。200円もあれば相当腹いっぱいだ。こういうところでも、外国人からぼったくってやろうというお店がないのがタイのいいところ。

 夜、ポロシャツを洗濯する。しかし湿度が高いので、朝になってもぜんぜん乾いておらぬ。ちょっとかなしい気持ちで湿ったポロシャツを着用して旅立つ。しかしこれは、まったくたいした問題ではないことをのちに思い知るのである。宿を出てバスターミナルへ向かう。泊まった宿は鉄道駅からは徒歩圏内であったが、バスターミナルに行くには三輪タクシーのトゥクトゥクを利用しなければならない。このあたりの公共交通機関の接続のわるさが発展途上国の特徴であるように思う。さてバスターミナルで、スコータイまでのきっぷを買う。窓口のおばさんに、「ニュースコータイに行くか、それともオールドスコータイか」と聞かれる。行きたいのは世界遺産の廃墟のスコータイだから、オールドスコータイと答える。きっぷを買って少し待っているとさっきのおばさんがやってきて、「今日はオールドスコータイはクローズドだ」という。町がクローズドってどういうことよ?意味はよく分からないが、とにかくバスは止まらないらしい。しかたなく新市街のニュースコータイまで行って、バスを乗り継ぐことにする。このとき、運賃の差額で40円くらいを返してくれる。このあたりのお金に対する律儀さはタイのよさである。

 さてニュースコータイからバスを乗り継ぐわけだが、そのためのバスターミナルが離れているため、またトゥクトゥクに乗る。バス料金は安いんだがトゥクトゥクは距離のわりにけっこう高いので、このあたりがもんだいである。あとから考えると、ピッサヌロークでレンタカーを借りるのがいちばん便利で経済的であった。

 さてトゥクトゥクでバスターミナル間を移動していると、どうもスコータイの町が騒がしい。お祭りのようである。お祭りというか、スポーツの試合前のような熱い雰囲気。道端に立っているおばさんから、いきなりバケツで水をかけられる。しかも走っているトゥクトゥクの客席の僕にかかるように計算された無駄のない攻撃である。かなりプロっている。そう、今日はタイの新年の、いわゆる水かけ祭りの日だったのだ。

(つづく)

地方の美術館に行くと、「地元の生んだ芸術家」みたいなコーナーがあり、しょーもない作品がならべられてたりしがちである。こういうのを遠足で見せられる子供たちにはアートはだるーいという印象を残す作用しかないだろうし、遠方から訪れる僕のような者にはサブカル的なネタを提供している。地元で生まれたから、というだけの理由で地元の美術館に飾るというのはどうかと思うのである。

おなじ理由で、日本の近代の洋画家たちの絵が、どうも好きになれない。「日本人が描いたから」というだけの理由で、日本でありがたがるというのがしっくりこないのである。もしおなじ絵をポルトガル人が描いていたら日本で展覧会を実施するだろうか?わたくしはこういう評価基準でものを見てしまうのである。別にこの評価基準を人に押し付けようとか広めようとかは思わない。個人的な感覚である。これも科学者としての思考の副作用で、「自然科学の真理に国境はない、人の素性は関係なく理屈だけを客観的に考えるように」と訓練されてきたから、アートについても、「僕が美しいと思えるものを見たい」というだけなのである。

ちなみに、「その場所でないと成り立たない」というサイトスペシフィックなアートなら地元の美術館で展示する価値があると思うのである。地元で生まれてパリの風景を描き・・・みたいな人の展示をする必要はないと思うんだけど、よそ者だけどこの土地の風物を描き・・・みたいな人の作品をその場所で観るのは好きなのです。