ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

友達のために死ぬような行動は美談だ。なぜそれはうつくしい?人間はなぜそれをうつくしいと思うのか?自分の遺伝子を残すためには、素直に考えると、友達を犠牲にして生き残ったり、血縁者のために死ぬような行動ならば合理的に思える。なのになぜ、利己的じゃなくて利他的な行動がうつくしいと、世界の様々な文化では思うのだろう?

古来、人間は助け合って生きてきた。なかには助け合いをしないずるいやつもいただろう。しかし人間は知能を発達させ、そういうやつのうそを見破れるようになった。そうなると、互恵的な関係には進化上のメリットが生じることになる。しかしそのメリットは、つねに利己的に相手を出し抜く方向への進化とのせめぎ合いをしているのである。

人類は、友達のために自己犠牲をすることをうつくしい・そしてそれが気持ちいいと感じる感覚をげっとするに至った。それは基本的に個人の遺伝子の繁栄に役立ってきたのだろうが、それは時として強烈な副作用を生じる。自分の遺伝子繁栄のための合理的なバランスをオーバーシュートしてしまい、自分が死んでしまうのだ。ただしそういうオーバーシュートは例外的なものだから、それを称賛することで、ずるい傾向とのバランスをとっているともいえる。人類はずるいやつと自己犠牲的なやつとふつうのやつの混合だから、総合するとちょうどよいレベルの協力関係が自発的に生じるようになっているのかもしれぬ。

理想像どおりに行動するやつは、実は最適じゃないのだろう。しかし、ほっとくと人間は利己的に流れるから、逆方向の行動をするやつのことをほめたたえることで自分らのバランスを保っているのかもしれない。

哲学者にけんかを売ってみる。

帰納と演繹を使う哲学ではあるが、統計学を知らぬ哲学者が帰納とか言ってるのを聞くと噴飯ものだ。統計的有意性、ということばを教えてやりたい。まちがった法則から演繹するのも爆笑だ。これを自然科学では、「garbage in, garbage out」という。哲学コースには、進化生物学を必修にするべきだ。人間とは何かを考えるのに、人間のからだとこころをかたちづくってきた遺伝子の話を避けるわけにはいかないのだ。

いまの大学のよいところは、底抜けの自由。ある意味、ちょっと無理してでも奇抜なことをするのが正しいような、そういう雰囲気。ただし単に奇をてらうのではなく、究極の目的として普遍的な知の探求や社会への還元といった深みがあるものが認められるような。

ただいま、学内の「学際コンテスト」に応募しています。こころセンターのセンター長に紹介していただいて以来仲良くさせてもらっている宗教哲学の先生と、筋金入りの進化生物学者すなわちガチの無心論者である私からの共同の研究提案。人間の感情に、「畏敬の念」みたいなもの、宗教的感情の根源みたいなものがどうやって生じるのかを、森をケーススタディとして考えてみるというすてきなプロジェクトです。

さらに、ご近所の芸術系の大学からもこの研究提案に参加していただいています。植物をみてうつくしいと思う気持ちを美術家の立場で考えてる先生。森の独特の空気感、たとえばいやしとか荘厳さとかを出す要因のひとつとしての音環境を調べてる先生。

こうやって多面的な研究をすることで、人間のこころにとっての森ってなんだろう、ということを調べてみたいのです。だって、森に感動し、森を愛し敬う気持ちから出発しなければ、僕らは自然保護なんて考えようとしないだろうし、森を研究しようなんて動機も生まれないだろうから。

そもそも僕ら生態学者は、植物の生理や動物の行動なんかは詳細に調べるくせに、それと対峙するわれわれ人間の気持ちをおろそかにしすぎな気がします。「この森にこういうめずらしい植物がいます」という情報を淡々と調べ発表するのが生態学者の稼業として常態化していて、その情報に接した人が感動するかどうかはその人まかせになっているのです。いやもちろんそういう研究も必要なんだけど、それだけじゃない気がする。

人類(Genus Homo)が生まれて約200万年。その大半は狩猟採集でくらしていた。農耕牧畜がはじまって約1万年だから、99.5%の期間は狩猟採集だったということになる。そしてその期間に、森に対する感情の根源みたいなものが生じ、根付いたように思う。うん、一生海を見ずに死んでいく人は多かっただろうが、一生森を見ない人は少ないよね。草原地帯でも、要所要所に樹木の群落はあって、人のくらしに重要な役割を果たしていただろうから。

食料や、雨風日光からの避難所、安全な隠れ場所を提供してくれる森。そこにいて気持ちいいのは当然だと思う。森を心地よく思えない人は、森からさまよい出てのたれ死ぬ可能性が高くなり淘汰されてしまう。というわけで現代人の僕らにも、森を愛して生きのびてきた人たちの遺伝子が脈々と受け継がれているのである。

血液型の影響を実証してみたい!

以下のような論文が出たらしい。

血液型と性格の無関連性――日本と米国の大規模社会調査を用いた実証的論拠――

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpsy/advpub/0/advpub_85.13016/_article/-char/ja/

この論文は特に真新しくなくて、血液型と性格に統計的に有意な関連性はない、というのが学界の定説である。しかし実は、僕は血液型は人の行動に何らかの特徴をもたらしているのではないか、と思っていて、この仮説を証明する調査をやってみたいと考えている。

たぶん、「血液型 vs. 性格」というような、従来のよくある研究デザインでは有意差はでないんだろう。そもそも、性格なんてものは漠然としていて、調査の対象としてはなはだ不適切なものだと思う。性格なんて状況に応じて変わるものだしね。

そこで僕は、性格から離れて、「血液型 vs. 属性」というような調査がやってみたいのである。属性、すなわち職場であるとか、なんらかの同好会であるとか。これについては属するか属さないかがはっきりするので、調査にあいまいさがない。

そして、これまでの経験で、「学者はB型が多い」とか「僕の友達はO型が多い」というような、明らかに日本人全体の血液型別人口比と比較して統計的に特徴のある構成割合を持ったグループをよく知っている。これならば調査すれば何らかの結果は出るので有望な気がするのである。

国史の話。たいへんベタであるが、諸葛孔明がどれだけえらいかを知るエピソードである。ちなみに「えらい」というのは、頭がいいというより、モラルが高いという意味で話してみたい。

中国の王朝の交代でよくあるパターンが、簒奪(さんだつ)である。皇帝の配下が強大な実力者となり、同僚を圧倒し、やがて皇帝をさえないがしろにし、ついには取って代わって自分が皇帝となるというプロセスである。

漢王朝を簒奪したのは曹操である。厳密には帝位を簒奪して皇帝となり魏王朝をひらいたは息子の丕であるが、操は死後、丕によって皇帝として祀られたことからも実質的な簒奪者といえよう。

魏国と対立していた蜀漢。その最大の実力者は、名実ともに諸葛孔明である。しかし孔明は簒奪の意思を少しも示すことなく、死ぬまで蜀漢皇帝の配下として忠誠を全うしたのである。

魏国の最大の実力者は司馬仲達。孔明のライバルである。しかし仲達は孔明とちがって、魏国の同僚を圧倒し、その権力を子孫に伝え、やがて孫が魏国を倒し晋国の皇帝となる基礎を築いた簒奪者なのである。ただしこれについて、仲達がことさら「わるいやつ」というのはかわいそうかもしれない。こういう立場になると簒奪するのはきわめてふつうのことであり、仲達は当たり前のことをしたまでである。ちなみに中国には易姓革命という考え方があり、孟子によっても、徳を失った王朝を倒すことの正当性は支持されているのである。ここではむしろ、孔明の(愚直なまでの)忠誠心というモラルをほめたたえるべきであろう。

さて、簒奪によって建国された王朝は、簒奪によって倒されることが多い。魏もそうであったし、晋もやがてそうなった。晋末期の皇帝司馬昱は臨終に際し、当時の最大の実力者である桓温に向かって、「諸葛孔明みたいにわしの息子を補佐してほしい」という意味のことを言った。司馬昱は、「自分の先祖であり建国の祖である司馬仲達みたいになってね」とお願いすることはできなかった。司馬仲達は簒奪者だからだ。このことからも、彼は国史と血統にやましさを感じていたことは否定できないだろう。かえって、「仲達のライバルだった敵国の孔明みたいになってね」と言ったのだ。そしてこれは、当時すでに、孔明が「歴史上のすごい人物」として人々の尊敬を集めていたことを物語っている。

ちなみに司馬昱の願いむなしく、晋王朝は桓温の息子によって滅ぼされた。歴史は繰り返すのである。この後中国は、簒奪者が簒奪されることを繰り返す混沌の時代へと突入する。

思えば、簒奪でない開基をもつ王朝は比較的長続きする気がする。民衆の大反乱から生じた王朝、たとえば漢、唐、明などは長命である。または、異民族による征服王朝である元や清もそうだろう。偶然かもしれないけど、因果応報的な法則は存在するような気になってしまう。

「宗教 vs. 科学」、または「宗教 vs. 宗教学」

僕は宗教学に興味を持っている。ということはとうぜん、その研究対象である宗教に興味を持っている。しかし、僕は学問としての宗教学のやり方を信じているが、宗教そのもののやり方は受け入れていない。つまり信じていないのである。

「科学を信じてる」が「宗教は信じてない」というと、「科学だって宗教のひとつみたいなもんでしょ」という反論を受けるのは定番である。しかし、科学と宗教が根本的に異なることがある。それが反証可能性の有無である。

すごく簡潔にいうと、宗教は、反証可能性が小さいほど良い宗教である。いっぽう科学は、反証可能性が大きいほど良い科学である。現代のキリスト教イスラム教の教義は高度に洗練されているため、議論において彼らの神の存在を否定することは不可能である。これから何百年宗教論争したって、キリスト教イスラム教のどっちが正しいかなんて結論はでないだろう。

しかし科学は、反証可能性が高いほど良いのである。自分の学説を導くにいたった過程のすべてをさらけだし、それをライバルたちに攻撃しまくってもらうのがサイエンスである。攻撃されることで根本的に誤った学説は排除されるし、部分的に不備のある学説は修正されていく。こういうシビアな世界を生き残った学説が法則となる。このプロセスは根源的にフェアなのである。そして、今のところ絶対の法則と信じられてることも、明日くつがえされるかもしれない。それが反証可能性であり、自分は科学者として、信じる学説がひっくり返ったときは甘んじてそれを受け入れる覚悟を常にしておくべきである。科学者は、常に死装束を身に着けて巡礼する四国遍路のようなものなのである。

カントリーマアムの「極み抹茶」を買った。なかには密封された小袋が詰まっているはずなのに、大袋をあけただけでけっこう強烈な抹茶の香り。小袋をしみだしてくるくらいの抑えられない香りのパワーを持ってるのだろう。お茶でもコーヒーでもこういうお菓子でも、パックをあけたときの最初の香りがすきだ。