ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

未来をおもう、人間はとても美しい

「未来をおもう、人間はとても美しい」

えこせん 第55号 〜未来をおもう 人間はとても美しい〜 – 京エコロジーセンター

インタビューを受けたときに、とっさに出たことばである。しかしこれ、我ながら名言だと思う。生物としての人間を力づよく表現しているからだ。人間とはなんなのか。絶対にひとことではまとめられない命題だけど、「人間らしさ」の特徴のひとつは、未来のことを考えて自発的な行動ができること。つまり、「あとで困るから、いま我慢しよう」「将来の楽しみのために今がんばろう」といった、あとさきを考えた行動をとれるということだ。他の生物も、冬越しのために秋にたくさん食べるなど、未来を見据えた行動をとっているように見えることがある。しかしそれは本能がそうさせているのである。秋になると食欲が増すという形質を持った個体群が生き残り反映した結果にすぎない。決して、「今日は食欲ないけど冬のために無理してでも食べておこう」なんて理性の結果ではないのである。

人間は、こういう未来をおもう理性を持てたゆえに繁栄した。その最たるものが農耕と牧畜である。考えてみると、農耕と牧畜はがまんの連続である。いま食べてしまえる野菜や子ヤギをわざと生かしておいて、汗水たらして世話をする。これは将来大きくしてから食ってやるためなのだが、それは未来のためにいまがんばるということ。これを本能でなく理性でできるのは人間のすばらしい特徴なのだ。

そして、独特の美的感覚も人間の特徴だ。進化心理学という学問では(※ くわしくは拙著「生物進化とはなにか?進化が生んだイビツな僕ら」をご覧いただきたい。)、その生物の生存と繁殖に役立つ美的感覚が自然淘汰で選ばれると考える。そうすると、人間の持つ美的感覚は、人間が生き残り、繁栄することに役立ってきたのだろう。人間は、動物や植物を見て、あるいは山や川を見て、すなおに美しいと思う。それは、自分たちの住む環境や食料となる生物を理解することが、生存と繁殖に役立つからだ。加えて人間は、ほかの人を見て「美しい」と感じることもある。その感覚は、伴侶や仲間を選ぶことにプラスにはたらいてきた。純粋なビジュアルだけじゃなく、性質や行動にも美しさを伴うことがある。たとえば、未来のためにがんばったり自省したりできる性質。仲間のためにする利他的な行動。これらが、家族や社会を維持し、人間は繁栄してきたのだ。結局人間は、自分や子孫が繁栄するという利己的な目的に沿って生きているのだけれど、その手段として、自制心や利他心を使っている。そしてそれに気づき、称揚するため、「美徳」と理解できるようになったのだ。

薙刀なぎなた)という武具がある。時代劇にたまに登場するが、使っているのは決まって女性と坊さん。日本刀や槍は男の戦闘員の武具である。

私の勝手な想像では、薙刀は攻撃というより自衛のためのたたかいに用いるという雰囲気があったのではないだろうか。本来は平和を愛し庇護される立場であるはずの女性や坊さん。そんな彼らでさえ戦場に駆り出されてしまう無常感と悲哀。それでも命をかけて戦わねばならぬという決意。そういう複雑さが、薙刀にあるような気がしてしまう。

ここで私が合わせて言及したいのが運慶作の八大童子である。

www.reihokan.or.jp

本来ならば仏の教えを学び、平和で安全・安心なくらしをおくるはずの童子たちだが、末法の世ではそれも許されぬ。そんな悲しみと、子どもが戦いに出ることへの素直なとまどいと恐れ、そして、それでも命を懸けて戦わねばならぬという決意。こういう複雑な感情が入り混じっているのである。特に恵光童子と清浄比丘の顔をご覧いただきたい。三鈷杵という武器を右手に持って、複雑な顔をしている。本来なら左手に持つ花を愛でたり本を読んだりしてくらしたいのに、なんで戦争が起こってしまったのか。そんな背後のストーリーも浮かんでくるのである。根っからの職業軍人であり戦うことに何の疑問も持たない四天王とは違うのである。

「世界一のクリスマスツリーを中止」プロジェクトに物申してみる

私はいちおう自然保護の専門家といえる立場で仕事をしています。自然保護活動を行う市民によくいるタイプとして、「感情に訴えるだけの人」「自然保護と動物愛護の区別がついていない人」などがあります。

これの新種が出たので記録しておきます。「動物愛護」の類型で「植物愛護」とでも言うべきか。

www.change.org

 

富山県から神戸に木を運んで、それを世界一のクリスマスツリーにするというプロジェクトを中止したい団体が署名を集めている。その理由は以下のとおり。

1・「建物を作ることや神事のような生活や社会に必要と思われる目的を持っていません」

2・「本来こうした大きな木は自治体などが保護すべき公共的な価値を帯びています」

3・「地域の人々の共有財産を傷つけ(る)」

4・「生命を軽視している」

 

私の反論を書き留めておきます。

1・クリスマスツリーにするためだけの理由で木を伐ってもいいじゃないか。たとえばニューヨークのクリスマスツリーは、そのためだけに毎年伐られ、クリスマスが終わったら木材として活用されています。おなじことでも日本ではやってはいけないの?それとも「世界一のクリスマスツリー」サイズの木だからだめなの?ちなみに欧米では、部屋に入るサイズのクリスマスツリーが大量に伐採されて売られています。それがクリスマスの伝統文化というものです。というかクリスマスだって「神事」です。日本人だってえびす祭では笹を切って使います。

2・樹齢150年のアスナロってそんなに大したもんじゃないです。このくらいで保護していたら日本の林業は破滅です(すでに破滅しているかどうかはさておき・・・)。ほんとうに保護すべき大木は自治体が「保存木」などとして保護しています。保存木の例を調べてみたらいい。樹齢150年のアスナロってそんなに大したもんじゃないって分かると思います。諏訪大社御柱祭で伐ってる大木のほうがよっぽどすごい木なのです。

3・アスナロはふつうに植林される木です。林業のために植えたり伐ったりするのです。地域の共有財産じゃないです。むしろ、不振にあえぐ林業者からみたら、こうやって買い手がついたのはプラスなのかもしれません。

4・人間の活動は、残念ながら他の生命をうばうことで成り立っています。富と権力を誇るために大きな建物を建てる人がいれば、そのために大木がたくさん伐られます。このプロジェクトも「世界一」なんて銘打ってるくらいなので、何かを誇りたい人がやってるんでしょうね。そのために一本の樹木の命が犠牲になりました。世の中ってそういうもんだと思います。

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↑ この言葉に激しく同意。僕の言いたいことを簡潔にまとめてくれてる。この人にはじめて才能を感じた。

中途半端なステータスと知名度を持っているという点で、程度の差はあるがこの人と僕は似ている。そういう僕らがよく経験するのは、無名の人(ネット上の人のこともあるし、講演会に来る人のこともある)からの攻撃である。

やたら上から目線で、「お前の言っていることは間違っている、その根拠は、おれは○○大学の××先生という偉い人と知り合いだからだ」というようなことを言われる。そういう攻撃をする人は、自分自身は無名・無学なただの人なのに、○○大学の××先生と自分を同一化することで、他人を上から批判する権利を持つと勘違いしているのだ。

そういう論法がまかり通るなら、僕はE. O. Wilsonとおなじ組織に所属して口を利いたこともあるんだぞ、アルゴアの話をじかに至近距離で聞いたこともあるんだぞ、なんて理由で、我が分野の日本の学者たち全員を見下すことも可能になってしまうのだ。

なぜひふみんは、引退が決まった夜の会見を拒否したか

いつでも礼儀正しく愛想のよいひふみん。しかし、引退が決まった夜、彼には笑顔も愛想もなかった。マスコミを無視し、投了前に呼んでおいたタクシーに乗ってその場を後にした。この行動の理由についていろいろ語られているが、ここでは僕の見解を書いておきたい。

これはたとえ話である。ある有名人が難病にかかり、もうすぐなくなりそう、どうやら今夜がヤマだ、というのをマスコミがかぎつけたとする。そのとき、マスコミが病院の前でスタンバっていたらどんな気分だろう。その記者にとっては、もしその有名人が死んだら大ニュースであり、他社にさきがけて報道できるスクープになるだろう。しかし、その有名人がその晩死ななかったら、その記者にとってはなんのニュースでもない。その有名人の死が、その記者にとっては成功である。その晩に死ぬ可能性が結構あるからという理由で取材に来る記者。これは失礼な話である。

ひふみんの場合もそうだ。対局に負けたら引退で、大きなニュースになる。対局に勝ったら現役続行だから、ニュースにはならない(小さなニュースにはなるかもしれないけど)。つまり、対局に負けるというネガティブな現象を前提として、マスコミは集まってくるのである。これはたいへん失礼な話である。

マスコミや、彼らの顧客である一般市民に望むことは、ある有名人が今夜死ぬ可能性があると感づいていても、あるいはひふみんが今夜引退する可能性があることに感づいていても、あくまでも「生きるだろう」「勝つだろう」という気持ちで見守ってほしいということ。ネガティブなことが起こることを予期していたとしても、それは心のなかにとどめておき、表立った行動を起こすのは、公式発表のあとにしてほしい。

結婚式のお祝いはピン札がよい。しかし、お葬式の香典はピン札ではいけない。これは、前もってその人が死ぬことを予期していたかのように準備がよすぎると遺族を傷つけるという意味である。こういう奥ゆかしさを望むのである。

 

石田三成の 「三献の茶」

一杯目はぬるく、二杯目は少し熱く、三杯目はとても熱くしてお茶を出した。これは喉が渇いていた秀吉への心配りである。

石田三成についてこういう故事が語られるが、そもそも緑茶とは、一杯目はぬるいお湯で甘みを楽しみ、二杯目は少し熱いお湯で深い味を楽しみ、三杯目は熱いお湯で苦みを楽しむものである。当たり前といえば当たり前なのである。

しかし、実際にお茶を上手にいれるのはむずかしい。煎茶のいれかたの基本を実行できた三成は優秀だし、その基本をつくった煎茶文化もすばらしいのである。