ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?(深津貴之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

僕も、オリンピックのロゴだけが問題だったときは、パクリではないと思っていた。そして今でも、パクリかどうかの話は水掛け論になるので、「パクリだから撤回すべし」とは言わない。

ただし、サントリーのトートバッグの件は、完全なるパクリである。これについては異論はないだろう。

そして、信用を重んじるこの業界では、「いちど信用を失った者は、ほかの仕事からも干される」というルールがある。

たとえば、公共事業の公募では、過去に別件で不正のあった業者は入札が許されない。「前回は不正したけど、今回はまじめにやるから」という理屈は通じないのだ。

同様に佐野氏も、「トートバッグはパクリだったけど、オリンピックは違うから」という理屈は通じない。

よって、「過去に別件で不正をした佐野氏だから、オリンピックもやめるべし」ということになる。だから、オリンピックのロゴがパクリだろうがオリジナルだろうが、佐野氏のやつを使ってはいけないのである。

人間関係とドキドキ感

「この人、気が合いそうだな」って直感で分かる人と知り合って、お話しして、だんだん仲良くなっていくときの高揚感。初対面ではお互いの話は、基本的にすべて初耳。だから会話は、フルパワーで鉄板ネタの応酬となる。とうぜんおもしろい。ドキドキするのだ。

ところが仲良くなってしまうと、いずれ話すネタが尽きてくる。おなじ会話が何度も出てくる。つまんなくなってくる。

そんな危機を超えて仲良しで居続けるために必要なのは。話を聞く力、変化して学び続けようという姿勢、知識よりも洞察力。ひたすらむかし話に花を咲かせるだけの仲良しクラブはまっぴらで、それならひとりでいるほうがずっといいのである。

右傾化と、それに気づかぬ民衆

最近テレビをつけると、「今日の中国おもしろ情報」みたいなのをやってることが多い気がする。中国人がやってるバカな行動をおもしろおかしく笑いましょう、みたいなコーナーである。これ、第二次世界大戦に負ける前の日本人のメンタリティとおなじである。国はちがえども、バカチョンカメラという表現に見られるような差別意識である。ひとむかし前の日本のマスコミにこんな傾向はなかったのに、最近のマスコミには、中国のことを安心して笑ってOK、あっちが日本を嫌うならこっちも笑ってやる、みたいな意識が見える気がする。そしてそれをふつうに視聴して麻痺していく民衆。

外国人が日本の優れた技術やら文化やらを学んで感動する、みたいなテレビ番組も多い。ひとむかし前は、外国の優れたことを日本人が学ぶためのテレビ番組のほうが多かったような気がする。それなら教養番組として成り立つといえるんだけど、「外国人が日本から学びました」という番組を日本人に見せて、いったいどうしようというんだろうか。満足させられるのは民衆の自尊心だけである。

悪魔とたたかう方法

「悪魔とたたかう方法、それは―自分自身が悪魔になることだ」

ゆうべのテレビで永井豪が言っていた。マンガのなかで。

僕に当てはめると、

「有名人とたたかう方法、それは―自分自身が有名人になることだ」

となる。有名人って調子に乗って適当なことを言う。たとえば、オリンピック選手が政治に口をはさんだり、お笑い芸人が人生哲学を語ったりする。言ってる内容はただのド素人のたわごとなのに、彼らは有名人で、その本業で人気を獲得しているゆえに、耳を傾ける民衆は多い。彼らのほうでも、勘違いが生まれる。ただ非常にマニアックでピンポイントの仕事で成功したにすぎないのに、自分は成功者だから、身の回りのあらゆることが一般人より見えていて優秀だ、と思ってしまうのだ。

僕はものごころついたときから大学院に至るまで、ずっとまわりから、特別頭いいね、って言われてきた。その反面、頭いいのになんでそんなバカなことするの?とも言われ続けてきた。僕は賢いと同時にバカなのだ。この状況を整理するために僕がむかしから使っているたとえは、あやとりの世界チャンピオンだ。そういう人が実在するかどうかは別として。

あやとりの世界チャンピオンはその方面ではすごいのだが、その才能はあやとりに限定されたものであり、実生活に役立つ何らかの才能が保証されているわけではない。世間でもほとんど認知されていない。そして、僕が賢いというのも、実はそういうことなんだと思っている。ピンポイントではすごい能力を持っているが、だからといってうれしげに、世間のすべてに上から目線でコメント寄せられるような汎用性は持っていない。そしてなにより、自分自身の人生を、「かしこく」生きるすべは、まったく持ち合わせていない。

話がそれてしまった。そう、適当なことを言う有名人である。僕の鼻につくのは、ド素人のクセに科学について語るやつらだ。でも彼らの発言はメディアを駆け巡り、彼らの信者のあいだでは教典として神聖視される。こうして民衆はまた誤導されていく。

僕は科学的事実を、その不確実性も含めてできるだけ正確に、民衆に伝えようとしている。本も書くしイベントにも出るし授業もやっている。しかし発信力が足りない。だから僕は、有名人になりたい。

僕は文章を書く。自分に与えられたクリエイティブな才能は、書くことだけだって思ってるから。表現の才能は人それぞれ。歌える人・楽器できる人・絵を描ける人・見た目のうつくしい人、それぞれの方法で一流になり、自分のメッセージを伝えられる力を持っている。なかにはふたつ以上の才能を持っている人もいる。なんの才能も持たない人もいる。

幸か不幸か、僕にはそのなかのひとつが与えられた。おごることも謙遜することもなく、いま手持ちの武器、つまり書く力で、いかにしてたたかうかを考えたい。そのモチベーションは、少しの私利私欲(名誉欲)と、もっと大きな使命感だ。

文章はデジタルな表現技法だ。文字という記号がならんでいるだけ。だから表現力に欠けるきらいがある。特にパソコンで打つ文字は平板なフォントサイズとタイプの羅列だ。絵描きが持つ、「無限の色素の組み合わせ」という驚異的なポテンシャルは、文学には存在しない。英語では26文字と少しの記号、日本語でもたかだか1000文字ちょっとの記号を並べ替えるだけというのが文学なのである。ときに、難読漢字を含めると日本語の文字数は飛躍的に増えるけど、そういうのを使わないのが僕の流儀だ。

文学は本質的に表現力に乏しい反面、コピーしても劣化しないという特徴もある。必要とされるなら、本を何万冊も増刷しても、何十年も重版を重ねても、内容は劣化しない。絵描きの絵は一点ものだ。絵を売ってしまえば、自分の手元からなくなる。所有者が焼いてしまえば、この世から消えてしまう。たとえ写真が残っていても、実物は存在しなくなる。その点、本ならばいくら焼かれようとも、そこに書かれたメッセージは、どこかに一冊でも残っているかぎり、うしなわれずに済むのだ。

よくやっかみ半分に、「文章『が』うまいね」とか、「プレゼン『が』うまいね」なんて言われることがある。暗に「実力もないくせに要領がいいね」といやみを言いたいんだろう。でも僕は、形式的な表現力で意識されないように、自分のなかで厳しいルールを設けている。流麗な表現をしない・あざとい韻をふまない・ロックなリズムを刻まない、など。

そうなると残るのは、文章のコンセプトだ。ほんとうに言いたいことがすばらしくないと、すばらしい文章は書けない。くだらないコンセプトに言葉の装飾を施しても、それは灰燼に帰す。あくまでもここで勝負したい。

「頭では理解できてるのに、うまく文章で表現できない」なんていう人がいるが、それは実のところ、頭でもちゃんと理解できてないんだと思う。いちばん分かってる人が、いちばんいい文章を書く。そういう世界でたたかっていきたい。

「これはアートです」

ろくでなし子事件と関連があるようなないような、芸術と性の問題について。

 

とある人が股間の写真を公開し、それを批判されると、「これはアートです」と答えたそうな。

http://www.j-cast.com/2014/12/15223299.html?p=all

 

アートは高尚だから世間の理解と寛容をしめしてもらって当然、というこの人の前提がよくあらわれたことばである。この人自身は芸術家でもなんでもなく、子どもっぽくアートにあこがれてるだけの人なんだろう。なんでも入門したてのときは、こうやって知ったかぶりをしたくなるものである。

 

このときどういう対応をすべきだったか、私が以下に勝手にロールプレイしてみる。

 

「いきなりドキッとする写真を投稿しちゃってごめんなさい。これは写真家さんの作品で、私もこれをはじめて見たときにドキッとした。なんでこういうきわどい作品をつくるんだろう。でも、少し考えたら、なんとなく作者の気持ちがわかってきたような気がしてきた。すぐに答えは見つからないけど、アートってこういうものなのかな」

 

私たちは、性について隠すことを教えられ、それと同時に性は私たちを動かしている。性にはネガティブな面とポジティブな面がある。この微妙で矛盾した感覚を、直観的に作品であらわすことは、芸術のひとつの役割じゃないかと思っている。

ゲージツの偏屈にもの申す

よく、ゲージツにしか興味ないからテレビは見ないの、なんて言う人がいる。しかしテレビって、よく考えたら総合芸術なんじゃないだろうか。すべてが映像作品である。ビジュアルアートとしての側面もあるし、音楽番組やドラマはパフォーミングアートである。

現代のふつうの日本人がどれくらい芸術が好きか。好きなテレビ番組にあわせて家に帰るようにするし、それができないと録画する。それに飽きたらずDVDを借りたりする。自分の自由になる時間の半分以上を、テレビという芸術に費やしている人も多いだろう。

マンガだって芸術だ。文学作品とビジュアルアートを融合させたもので、基本的にひとりの作家が両方やってるというのがとにかくすごい。

僕らふつうの日本人が芸術に費やすお金と時間をバカにしてはいけない。最近の人たちはゲージツにお金を落とさないからこんな国はダメだ、こんなんじゃゲージツが育たない、なんてえらそうに文句をたれる芸術家くずれはおおいけど、そのほんとうの理由は、そいつらが提供してるものがしょぼいからだと思う。ほんとにすてきなものをつくったら、それを正当に評価する程度には、日本人の目は肥えている。

特に現代アートの諸君。現代から目を背けた状態で都合のよい反抗とかしてるのはかっこわるいと思う。自分らのゲージツは高尚だから認められない、大衆が好むテレビはゲスだ、なんてのはかっこわるいと思うよ。

ときに僕は、洋楽にはまってたころは日本の音楽を一切聴かなかった。ほんとに日本の音楽がまったく耳に入ってこずに、その数年間の流行の歌の記憶が一切抜け落ちている。これはわざとやったわけではなく、自然とそういう精神状態になっていた。人生の数年間がそうだったことに後悔はないし、その時代がのちの僕をつくりだしたとも言える。ただしその時代を乗り越えることができたから、ひとりよがり状態を脱出できたんだと思っている。