ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

がんばってる人と、がんばってない人がいます。僕はがんばってる人のほうです。かなりがんばってます。でもがんばってるからえらいかというと、よくわからない。あえて自分からもがき苦しむことで多少の陶酔と自己満足が得られますが、それから覚めてくると、よくわからなくなります。そしてこういうこと書くとまた自意識過剰で暗い自分が浮き彫りになって悲しくなります。
 
「たたかうきみのうたを、たたかわないやつらがわらうだろう、ふぁいと」って中島みゆきは歌ったけれど、出口のないたたかいを続けている自分を、自分自身でも笑ってる僕がいます。僕は身の丈にあった立場でゆったりと余裕のある人生を送ればいいのに。それでも世間的に見たら十分しあわせでしょ、と自分の声がします。でも止まってしまったら、なにかに押し流されてしまいそうで、不安なのです。
 
売れっ子の芸術家、奈良美智って人がいます。あるとき彼は強烈なスポットライトを浴び、でかい企画展を成功させ、アート業界ですごくもてはやされました。いちど成功したら「巨匠」ポジションに座れば人生いっちょあがりです。あとは自分のコピーを続けていればほめられて儲かるからです。
 
しかし、そんな成功とうらはらに、というか成功の体験が彼を不安にさせ、制作ができなくなった時期があるといいます。彼は苦しみ、もがきながらいろんなことを模索し、数年間におよぶ自分とのたたかいの結果、ふたたび絵を描けるようになったのです。
 
でも、おもしろいことに。苦しむ前と苦しんだあとの彼の作品、何が変わったのかというと、正直よくわかりません。そりゃ僕に見る目がないからでしょうけど、世間の大多数ってそんなもんだから、結局そんなもんです。
 
僕が苦しんでるのも、その結果何かが変わったとしても、それは世間には観測不能なのかもしれません。単なる自己満足なのかもしれません。観測できないものは存在しないのとおなじ、とスプツニ子!は言ったけど、その世間で観測されるもの、むかしから変わってないように見える成果を安定して出し続けるために、観測不能なこころのひとり相撲を続けていかねばならないのかもしれません。