読解力の低下:<HKT48>「女性蔑視の歌詞だ」新曲に批判
<HKT48>「女性蔑視の歌詞だ」新曲に批判
曲は4月13日に発売された。「頭からっぽでいい」「世の中のジョーシキ 何も知らなくても メイク上手ならいい」と見た目重視の女子の心情を歌う。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160517-00000076-mai-soci
シュールなブラックジョークで逆説的に問題を提起する。これは昔からある手法だ。たとえばEagles。Life in the fast laneのように、現代人の心理を見つめ、それになりきって歌う。Eaglesの真意は現代人に対する批判なんだけど、歌詞の内容は病んだ現代人の心理を淡々と語るだけ。聞く人がそれを自分自身で解釈し、作詞家の意図に自発的に気づき、現代人のあやうさに気づくようにするしかけである。
「女の子は頭からっぽでいい」って思ってる女子は確かに存在するだろうけど、それはさすがに少数派だろう。これは秋元さんからのブラックジョークなのである。この歌を聞いて、逆説的に「勉強しよう」と思う女子が出現するための刺激なのである。もちろんこの歌詞を聞いて、ほんとにバカになってしまう女子も少数派いる可能性も否定しない。それはそれとして、より多くの女子は、バカでいつづけることに不安を感じ、勉強するようになってほしい。そういう意図なのではないだろうか。
リーガルハイというドラマがあって、主人公はモラルを欠いた弁護士である。この存在自体がブラックジョークであり、視聴者は、こんな人にはなりたくないな、しかしここまで、すがすがしいくらいにカスだと、感情移入する側面もあるな、みたいな反応をする。くだんのHKTの歌詞に対しても、同様に反応すべきなんだと思う。
薄笑いを浮かべながら歌を聞こう。すがすがしいくらいのカスを愛でてみよう。ロリコンじゃなくても会田誠がつくるロリコン的作品の鑑賞が可能であるように。
もっと人間に絶望しよう
「人間に対する絶望感が足りてないんじゃないか」と、学生たちや同僚たちを見ると思う。
「人間は基本、僕のことを分かってくれない」
「人間は基本、僕の都合を考えてくれない」
「人間(特に先生や上司)は基本、非効率なこと(ときに無駄なこと)を要求してくる」
しかしそれでもなお、僕らは自分ひとりでは生きられない。とかくこの世は住みにくい。人の世がいやなら、人でなしの世にでも行くしかないのだろうが、そうなるともっと住みにくかろう。夏目漱石もこういうふうに言っている。
そんなわけで、僕らは人間に絶望したとき、過剰な期待に起因する失望から解放される。ときたま奇跡的に、僕らにやさしくしてくれる人間に出会うときがある。あるいは、いつもはイヤな人間が、ときにやさしくなるときがある。そのとき、その「有難さ」というのが実感できる。「ありがたい」という日本語は、基本あり得ないことだという絶望がベースにあり、それが奇跡的に生じたことに対する感嘆と感謝なのである。
もちろん、いつも僕にやさしくしてくれたり、僕を理解してくれたりする人も、少しだけいる。だから僕は、その人の存在自体が奇跡であり、大事にしたいと思う。僕は基本的に人間に対する絶望感につつまれているから、その感覚がまひすることはない。いつでもこころの底からありがとう、って言うし、それはこれからも変わらないんじゃないかと思う。取り立てて人間的にとりえのない僕だけど、その卑屈さの裏返しで、こういう気持ちを持ててることはちょっとうれしい。
誤った解釈を堂々と掲載する雑誌-相関と因果は、似ているようで大ちがい
わりとまじめな有名誌なのに、誤った解釈を堂々と掲載してしまう。
高学歴女性の人生を狂わす「仕事と家庭の両立」できる・できない3大分岐点 (プレジデント) - Yahoo!ニュース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160411-00017767-president-bus_all&p=1
引用---------
アンケート調査結果では、まず第1子出産後、同じ会社で就業継続した女性と両立を希望していたがやむなく離職した女性の双方に、「家事・育児負担割合」を比べました。すると、配偶者(夫)による家事や育児の負担状況に差が見られることが明らかになりました(図表1)。
「妻による“育児”負担割合が80%以上」と回答した割合は、同じ会社で就業継続した女性は56.1%、一方、離職した女性は77.3%でした。夫が家事メンであるほど就業継続している女性が多いのが特徴的です。
では、家事に関してはどうか。
「妻による“家事”負担割合が80%以上」と回答した割合は、同じ会社で就業継続した女性は44.5%で、離職した女性は86.4%でした。離職した女性は、夫の支援がほとんど得られていなかったことが分かります。
引用おわり----------
この記事の解釈は、因果関係と相関関係を理解していないと思われる。
この記事では、
「夫が家事を手伝わない」-->「妻が離職せざるを得ない」
という因果関係にしか注目していない。しかし実際には、
「共ばたらき時代の夫婦の家事負担は平等だった」-->「妻が出産を機に離職した」-->「すると妻は、自分は専業主婦になったんだから、とうぜんのなりゆきとして家事を負担しようと思った」
という図式もあるはずだ。
だいたい、夫がフルタイムで働いていて、妻が専業主婦をやっていて、家事負担割合が共ばたらきのときと変わらないわけはない。そんなの逆に異常でしょ。
プロの学者は、こういう記事を読むと自然と、因果関係と相関関係のちがいを意識する。この記事を書いた人も何らかのプロならば、これを意識しておくべきだ。単に相関関係があるからといって因果関係があるとは限らない。因果関係を客観的に立証しないと、こういう記事を書くべきじゃない。
日本のマスコミが苦境に立たされていることの一因は、こういったかんじでのマスコミ側のクオリティの低下もあるように思う。まずは、良い記事を書き、良い記事を掲載する努力をすべきであろう。
日本の経済構造の苦しみ
戦後から高度経済成長期にかけて、日本の人口ピラミッドは「ピラミッド型」。いや、それ以前の、明治や江戸にかけてもピラミッド型だった。戦後や明治は人口増加の時期だからピラミッド型になるのは当然。江戸時代に人口は増えなかったけど、医療や衛生の貧弱さから寿命をまっとうできないことがむしろふつうな時代だったから、ピラミッド型になっていた。
ピラミッド型の社会では、多数の若者を少数の中高年が支配し指図するという構造がぴたりとはまる。儒教的な年功序列社会だ。しかし少子化と人口減少のフェイズを迎え、ピラミッド型から煙突型、へたすりゃ逆ピラミッドになっていく。これでは年功序列は成り立たない。若者の労働力を搾取するというビジネスモデルは破たんしているのだ。
日本に経済力があった時代には、外国の安い労働力を搾取する構造に移行することもできた。しかし今となっては、日本はそんなに豊かな国ではない。そう、崩壊は着実に近づいている。
日本古来の信仰と遊び
この記事は薄いなあ。日本古来、子どもの遊びというのは神聖視されることもあった。神さまの前で子どもが遊ぶことで神さまは喜ぶ。子どもを引きはなすと、かえって神さまは怒って災厄をもたらすこともある。
中国でも、天(神さまのような超自然の存在)は、わらべうたに乗せて予言や、人間への宣告を行うという考え方がある。
美術作品の写真を撮るのはOK?
芸術で社会にはたらきかけようとする思想を持つ作家、たとえば村上隆やヤノベケンジ、会田誠などは、自分らの作品、あるいは自分のコレクションの作品を観る者が写真に収めることを認めている。
一方、例えば奈良美智は、自分の作品が撮影されるのを好ましく思っていないようだ。彼自身を撮影すること・握手やサインを求めることも禁じられているとのことだ。
おなじ現代美術にくくられる人たちでも、写真撮影を許可するかどうかの姿勢は異なっている(もちろん、個人の姿勢だけじゃなく所属ギャラリーなどの方針もあることだろう)。
ちなみに、美術館・博物館でも写真撮影についての方針は異なる。東京国立博物館や東京国立近代美術館は、基本的に収蔵品の撮影がOKである。ただし、寄託された品の場合は所有者の意思が優先されるし、混雑緩和などの理由があれば禁止されることもある。これは、国民の共有物である所蔵品を国民が写真撮影し、個人的な楽しみとか、勉強とか趣味とかに使ってよいということだろう。
同様に、横浜美術館の村上隆のコレクション展「スーパーフラット・コレクション」は、彼個人の収集品でありながら、彼はそれを、アカデミック・パブリック・客観的な視点でとらえ、精神的な意味で国民の共有物と考えているような節も見られた。だって写真撮影OKだし、作品は年代順に分類されてるし。
高橋コレクションやヤゲオコレクションなど、ほかのコレクションも、個人的な資料にするための写真撮影は認めてほしいものである(もちろんカタログは買うけど、それに加えて自分で写真も撮りたいのだ)。
アイドルの恋愛禁止ルール?
自分用備忘録。
アイドルの恋愛禁止ルールは、どこまで法的拘束力を持つのだろう。ふたつの対照的な判決が出ている。
2016/01/18
アイドル交際禁止「行き過ぎ」 地裁、会社側の請求棄却 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
2015/09/30
アイドルが恋愛しちゃダメ? 交際発覚の少女に賠償命令
http://www.asahi.com/articles/ASH9T6TC7H9TUTIL046.html?ref=yahoo
恋愛禁止ルールを破ったアイドルに、芸能事務所が損害賠償請求をできるかどうか、という話である。
恋愛するのは基本的人権だけど、あえてそれに制限を加えることが、「なんらかの価値」を生み出すことがある。たとえば、ある種の宗教では、尼さんとか修道女とかのなかには、恋愛をしないという宗教上のルールに従っているがために、宗教組織上での立場や、経済的な安定を得ている人がいるかもしれない。その場合、彼女らが恋愛禁止のルールを破ったら、宗教上の処罰(破門とか降格とか)を受けることがあるかもしれない。それにともなって、「クビ」になったり「給料」を減らされたりするかもしれない。そして、宗教組織がこのようなルールを持ち、運用するのは合法である。合法であるとの判決もある(世界中で)。
こう考えると、宗教という名のもとでは当然のごとく合法的とみなされていることでも、アイドルという職業では議論の対象となることがわかる。アイドルは偶像といいながら、やっぱり宗教とはちがうのである。