ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

日本古来の信仰と遊び

この記事は薄いなあ。日本古来、子どもの遊びというのは神聖視されることもあった。神さまの前で子どもが遊ぶことで神さまは喜ぶ。子どもを引きはなすと、かえって神さまは怒って災厄をもたらすこともある。

中国でも、天(神さまのような超自然の存在)は、わらべうたに乗せて予言や、人間への宣告を行うという考え方がある。

美術作品の写真を撮るのはOK?

芸術で社会にはたらきかけようとする思想を持つ作家、たとえば村上隆ヤノベケンジ会田誠などは、自分らの作品、あるいは自分のコレクションの作品を観る者が写真に収めることを認めている。

一方、例えば奈良美智は、自分の作品が撮影されるのを好ましく思っていないようだ。彼自身を撮影すること・握手やサインを求めることも禁じられているとのことだ。

おなじ現代美術にくくられる人たちでも、写真撮影を許可するかどうかの姿勢は異なっている(もちろん、個人の姿勢だけじゃなく所属ギャラリーなどの方針もあることだろう)。

ちなみに、美術館・博物館でも写真撮影についての方針は異なる。東京国立博物館東京国立近代美術館は、基本的に収蔵品の撮影がOKである。ただし、寄託された品の場合は所有者の意思が優先されるし、混雑緩和などの理由があれば禁止されることもある。これは、国民の共有物である所蔵品を国民が写真撮影し、個人的な楽しみとか、勉強とか趣味とかに使ってよいということだろう。

同様に、横浜美術館村上隆のコレクション展「スーパーフラット・コレクション」は、彼個人の収集品でありながら、彼はそれを、アカデミック・パブリック・客観的な視点でとらえ、精神的な意味で国民の共有物と考えているような節も見られた。だって写真撮影OKだし、作品は年代順に分類されてるし。

高橋コレクションやヤゲオコレクションなど、ほかのコレクションも、個人的な資料にするための写真撮影は認めてほしいものである(もちろんカタログは買うけど、それに加えて自分で写真も撮りたいのだ)。

アイドルの恋愛禁止ルール?

自分用備忘録。

 

アイドルの恋愛禁止ルールは、どこまで法的拘束力を持つのだろう。ふたつの対照的な判決が出ている。

 

2016/01/18

アイドル交際禁止「行き過ぎ」 地裁、会社側の請求棄却 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

 2015/09/30

アイドルが恋愛しちゃダメ? 交際発覚の少女に賠償命令

http://www.asahi.com/articles/ASH9T6TC7H9TUTIL046.html?ref=yahoo

 

恋愛禁止ルールを破ったアイドルに、芸能事務所が損害賠償請求をできるかどうか、という話である。

 

恋愛するのは基本的人権だけど、あえてそれに制限を加えることが、「なんらかの価値」を生み出すことがある。たとえば、ある種の宗教では、尼さんとか修道女とかのなかには、恋愛をしないという宗教上のルールに従っているがために、宗教組織上での立場や、経済的な安定を得ている人がいるかもしれない。その場合、彼女らが恋愛禁止のルールを破ったら、宗教上の処罰(破門とか降格とか)を受けることがあるかもしれない。それにともなって、「クビ」になったり「給料」を減らされたりするかもしれない。そして、宗教組織がこのようなルールを持ち、運用するのは合法である。合法であるとの判決もある(世界中で)。

 

こう考えると、宗教という名のもとでは当然のごとく合法的とみなされていることでも、アイドルという職業では議論の対象となることがわかる。アイドルは偶像といいながら、やっぱり宗教とはちがうのである。

コモディティー化と付加価値

「製品がコモディティー化すると利幅が減る、だから付加価値をつけて競争力を高めなくちゃいけない」

こういう理屈のもとにメーカーはがんばってるんだけど、日本の企業の発想の陳腐さは恐れ入る。たとえばカーナビに「盗難多発地域です。ご注意ください」としゃべらせたり、ボタンを押したら華麗なアニメーションを強制的に見せつけたり。・・・付加価値とはそういうことじゃない!カーナビ専用機は、すでにいろんな意味でスマホの道案内に負けている。

iPhoneのように日常生活を根底からくつがえす製品をなぜつくれないのか。真剣に考えてほしい。そもそもクリエイティブな製品のアイデアが枯渇しているなら、自発的に企業規模を縮小したり事業から撤退したり、ソフトランディングで質素な生活に回帰するような戦略を考えるべきだろう。

 

 

ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言 数か月で独り立ちの寿司はうまいか? (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

 

はじめてほりえさんと意見が合った気がします。修業には年数がかかるというイメージを植え付けるのは、安い労働力を確保するため。能力があれば時間は関係ありません。岡本太郎もこういうことを言っていました。「10年修業しないとこの芸術の良さは分からない、部外者が口出すな」みたいな権威主義者がきらいなんです岡本さんは。

いや、たしかに時間は無意味ではない。自分を例に考えると、自分が12歳のときより15歳のときのほうが成長していて能力が高い。

しかし、個人間の能力の違いというものは圧倒的で、12歳のときの自分は、15歳や30歳や50歳の他人より能力が高かった。「3歳の人間は100歳のカメよりかしこい(部分的には)」というのが僕の座右の銘です。

書く仕事が多すぎてたいへんだ・・・。ひとつひとつに使える時間と労力は限られる。とりあえずアイデアを、支離滅裂でもいいからひたすらタイプしていく。何度も何度も読み返しては、文章に手を入れ、文法を修正し、ブロックを並び替えていく。するとある瞬間、単なるメモの羅列が、文学作品としての味わいを持ち始める。全体のトーンやメッセージがつながり、一体感をかもし、充実感を高める。こういう状態を超えたものじゃないと、世には出したくない。できるだけこの一線は、守っていこうと思う。