ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

薙刀なぎなた)という武具がある。時代劇にたまに登場するが、使っているのは決まって女性と坊さん。日本刀や槍は男の戦闘員の武具である。

私の勝手な想像では、薙刀は攻撃というより自衛のためのたたかいに用いるという雰囲気があったのではないだろうか。本来は平和を愛し庇護される立場であるはずの女性や坊さん。そんな彼らでさえ戦場に駆り出されてしまう無常感と悲哀。それでも命をかけて戦わねばならぬという決意。そういう複雑さが、薙刀にあるような気がしてしまう。

ここで私が合わせて言及したいのが運慶作の八大童子である。

www.reihokan.or.jp

本来ならば仏の教えを学び、平和で安全・安心なくらしをおくるはずの童子たちだが、末法の世ではそれも許されぬ。そんな悲しみと、子どもが戦いに出ることへの素直なとまどいと恐れ、そして、それでも命を懸けて戦わねばならぬという決意。こういう複雑な感情が入り混じっているのである。特に恵光童子と清浄比丘の顔をご覧いただきたい。三鈷杵という武器を右手に持って、複雑な顔をしている。本来なら左手に持つ花を愛でたり本を読んだりしてくらしたいのに、なんで戦争が起こってしまったのか。そんな背後のストーリーも浮かんでくるのである。根っからの職業軍人であり戦うことに何の疑問も持たない四天王とは違うのである。

「世界一のクリスマスツリーを中止」プロジェクトに物申してみる

私はいちおう自然保護の専門家といえる立場で仕事をしています。自然保護活動を行う市民によくいるタイプとして、「感情に訴えるだけの人」「自然保護と動物愛護の区別がついていない人」などがあります。

これの新種が出たので記録しておきます。「動物愛護」の類型で「植物愛護」とでも言うべきか。

www.change.org

 

富山県から神戸に木を運んで、それを世界一のクリスマスツリーにするというプロジェクトを中止したい団体が署名を集めている。その理由は以下のとおり。

1・「建物を作ることや神事のような生活や社会に必要と思われる目的を持っていません」

2・「本来こうした大きな木は自治体などが保護すべき公共的な価値を帯びています」

3・「地域の人々の共有財産を傷つけ(る)」

4・「生命を軽視している」

 

私の反論を書き留めておきます。

1・クリスマスツリーにするためだけの理由で木を伐ってもいいじゃないか。たとえばニューヨークのクリスマスツリーは、そのためだけに毎年伐られ、クリスマスが終わったら木材として活用されています。おなじことでも日本ではやってはいけないの?それとも「世界一のクリスマスツリー」サイズの木だからだめなの?ちなみに欧米では、部屋に入るサイズのクリスマスツリーが大量に伐採されて売られています。それがクリスマスの伝統文化というものです。というかクリスマスだって「神事」です。日本人だってえびす祭では笹を切って使います。

2・樹齢150年のアスナロってそんなに大したもんじゃないです。このくらいで保護していたら日本の林業は破滅です(すでに破滅しているかどうかはさておき・・・)。ほんとうに保護すべき大木は自治体が「保存木」などとして保護しています。保存木の例を調べてみたらいい。樹齢150年のアスナロってそんなに大したもんじゃないって分かると思います。諏訪大社御柱祭で伐ってる大木のほうがよっぽどすごい木なのです。

3・アスナロはふつうに植林される木です。林業のために植えたり伐ったりするのです。地域の共有財産じゃないです。むしろ、不振にあえぐ林業者からみたら、こうやって買い手がついたのはプラスなのかもしれません。

4・人間の活動は、残念ながら他の生命をうばうことで成り立っています。富と権力を誇るために大きな建物を建てる人がいれば、そのために大木がたくさん伐られます。このプロジェクトも「世界一」なんて銘打ってるくらいなので、何かを誇りたい人がやってるんでしょうね。そのために一本の樹木の命が犠牲になりました。世の中ってそういうもんだと思います。

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↑ この言葉に激しく同意。僕の言いたいことを簡潔にまとめてくれてる。この人にはじめて才能を感じた。

中途半端なステータスと知名度を持っているという点で、程度の差はあるがこの人と僕は似ている。そういう僕らがよく経験するのは、無名の人(ネット上の人のこともあるし、講演会に来る人のこともある)からの攻撃である。

やたら上から目線で、「お前の言っていることは間違っている、その根拠は、おれは○○大学の××先生という偉い人と知り合いだからだ」というようなことを言われる。そういう攻撃をする人は、自分自身は無名・無学なただの人なのに、○○大学の××先生と自分を同一化することで、他人を上から批判する権利を持つと勘違いしているのだ。

そういう論法がまかり通るなら、僕はE. O. Wilsonとおなじ組織に所属して口を利いたこともあるんだぞ、アルゴアの話をじかに至近距離で聞いたこともあるんだぞ、なんて理由で、我が分野の日本の学者たち全員を見下すことも可能になってしまうのだ。

なぜひふみんは、引退が決まった夜の会見を拒否したか

いつでも礼儀正しく愛想のよいひふみん。しかし、引退が決まった夜、彼には笑顔も愛想もなかった。マスコミを無視し、投了前に呼んでおいたタクシーに乗ってその場を後にした。この行動の理由についていろいろ語られているが、ここでは僕の見解を書いておきたい。

これはたとえ話である。ある有名人が難病にかかり、もうすぐなくなりそう、どうやら今夜がヤマだ、というのをマスコミがかぎつけたとする。そのとき、マスコミが病院の前でスタンバっていたらどんな気分だろう。その記者にとっては、もしその有名人が死んだら大ニュースであり、他社にさきがけて報道できるスクープになるだろう。しかし、その有名人がその晩死ななかったら、その記者にとってはなんのニュースでもない。その有名人の死が、その記者にとっては成功である。その晩に死ぬ可能性が結構あるからという理由で取材に来る記者。これは失礼な話である。

ひふみんの場合もそうだ。対局に負けたら引退で、大きなニュースになる。対局に勝ったら現役続行だから、ニュースにはならない(小さなニュースにはなるかもしれないけど)。つまり、対局に負けるというネガティブな現象を前提として、マスコミは集まってくるのである。これはたいへん失礼な話である。

マスコミや、彼らの顧客である一般市民に望むことは、ある有名人が今夜死ぬ可能性があると感づいていても、あるいはひふみんが今夜引退する可能性があることに感づいていても、あくまでも「生きるだろう」「勝つだろう」という気持ちで見守ってほしいということ。ネガティブなことが起こることを予期していたとしても、それは心のなかにとどめておき、表立った行動を起こすのは、公式発表のあとにしてほしい。

結婚式のお祝いはピン札がよい。しかし、お葬式の香典はピン札ではいけない。これは、前もってその人が死ぬことを予期していたかのように準備がよすぎると遺族を傷つけるという意味である。こういう奥ゆかしさを望むのである。

 

石田三成の 「三献の茶」

一杯目はぬるく、二杯目は少し熱く、三杯目はとても熱くしてお茶を出した。これは喉が渇いていた秀吉への心配りである。

石田三成についてこういう故事が語られるが、そもそも緑茶とは、一杯目はぬるいお湯で甘みを楽しみ、二杯目は少し熱いお湯で深い味を楽しみ、三杯目は熱いお湯で苦みを楽しむものである。当たり前といえば当たり前なのである。

しかし、実際にお茶を上手にいれるのはむずかしい。煎茶のいれかたの基本を実行できた三成は優秀だし、その基本をつくった煎茶文化もすばらしいのである。

出版業界の闇

最近、身近なところで出版業界のダメさを感じることが多い。

【ケース1】とある本(この本をAとしよう)を読んでたら、うちの仕事場が「旅行ガイド」的なページに載っていた。掲載の相談も連絡も受けたことがないのに。

もっとも、本を書く際に、基本的には相談も連絡もなく何かに言及することは自由である。たとえば私が、著書に「東京タワーに登ったよ」と書くのは自由である。しかし、商業施設でもなく一般公開された公園でもない場所を、勝手に旅行ガイドに書くのはルール違反である。しかも本Aは、間違った情報を掲載している。

【ケース2】ケース1だけでも嫌な気分なのに、さらに、雑誌Bは、本Aの文面をパクった旅行ガイドを書いていた。まさに最悪である。地獄絵図である。

間違った情報を勝手に書いてる本、さらにはそれをパクって売る雑誌。こんなのがまかり通る業界に未来はないような気がする。

 

今後のブログネタ備忘録

・日本人を3分割すると、オタク系ヤンキー系意識高い系になる。それぞれ他者に冷ややかな目線あるいは批判的な姿勢を取る。社会を変えるには、自分が属さないタイプへも訴えかけるだけの説得力が必要。

・石油が枯渇するというのは、採算が取れないというだけの意味。