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ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

僕は文章を書く。自分に与えられたクリエイティブな才能は、書くことだけだって思ってるから。表現の才能は人それぞれ。歌える人・楽器できる人・絵を描ける人・見た目のうつくしい人、それぞれの方法で一流になり、自分のメッセージを伝えられる力を持っている。なかにはふたつ以上の才能を持っている人もいる。なんの才能も持たない人もいる。

幸か不幸か、僕にはそのなかのひとつが与えられた。おごることも謙遜することもなく、いま手持ちの武器、つまり書く力で、いかにしてたたかうかを考えたい。そのモチベーションは、少しの私利私欲(名誉欲)と、もっと大きな使命感だ。

文章はデジタルな表現技法だ。文字という記号がならんでいるだけ。だから表現力に欠けるきらいがある。特にパソコンで打つ文字は平板なフォントサイズとタイプの羅列だ。絵描きが持つ、「無限の色素の組み合わせ」という驚異的なポテンシャルは、文学には存在しない。英語では26文字と少しの記号、日本語でもたかだか1000文字ちょっとの記号を並べ替えるだけというのが文学なのである。ときに、難読漢字を含めると日本語の文字数は飛躍的に増えるけど、そういうのを使わないのが僕の流儀だ。

文学は本質的に表現力に乏しい反面、コピーしても劣化しないという特徴もある。必要とされるなら、本を何万冊も増刷しても、何十年も重版を重ねても、内容は劣化しない。絵描きの絵は一点ものだ。絵を売ってしまえば、自分の手元からなくなる。所有者が焼いてしまえば、この世から消えてしまう。たとえ写真が残っていても、実物は存在しなくなる。その点、本ならばいくら焼かれようとも、そこに書かれたメッセージは、どこかに一冊でも残っているかぎり、うしなわれずに済むのだ。

よくやっかみ半分に、「文章『が』うまいね」とか、「プレゼン『が』うまいね」なんて言われることがある。暗に「実力もないくせに要領がいいね」といやみを言いたいんだろう。でも僕は、形式的な表現力で意識されないように、自分のなかで厳しいルールを設けている。流麗な表現をしない・あざとい韻をふまない・ロックなリズムを刻まない、など。

そうなると残るのは、文章のコンセプトだ。ほんとうに言いたいことがすばらしくないと、すばらしい文章は書けない。くだらないコンセプトに言葉の装飾を施しても、それは灰燼に帰す。あくまでもここで勝負したい。

「頭では理解できてるのに、うまく文章で表現できない」なんていう人がいるが、それは実のところ、頭でもちゃんと理解できてないんだと思う。いちばん分かってる人が、いちばんいい文章を書く。そういう世界でたたかっていきたい。