読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

友達のために死ぬような行動は美談だ。なぜそれはうつくしい?人間はなぜそれをうつくしいと思うのか?自分の遺伝子を残すためには、素直に考えると、友達を犠牲にして生き残ったり、血縁者のために死ぬような行動ならば合理的に思える。なのになぜ、利己的じゃなくて利他的な行動がうつくしいと、世界の様々な文化では思うのだろう?

古来、人間は助け合って生きてきた。なかには助け合いをしないずるいやつもいただろう。しかし人間は知能を発達させ、そういうやつのうそを見破れるようになった。そうなると、互恵的な関係には進化上のメリットが生じることになる。しかしそのメリットは、つねに利己的に相手を出し抜く方向への進化とのせめぎ合いをしているのである。

人類は、友達のために自己犠牲をすることをうつくしい・そしてそれが気持ちいいと感じる感覚をげっとするに至った。それは基本的に個人の遺伝子の繁栄に役立ってきたのだろうが、それは時として強烈な副作用を生じる。自分の遺伝子繁栄のための合理的なバランスをオーバーシュートしてしまい、自分が死んでしまうのだ。ただしそういうオーバーシュートは例外的なものだから、それを称賛することで、ずるい傾向とのバランスをとっているともいえる。人類はずるいやつと自己犠牲的なやつとふつうのやつの混合だから、総合するとちょうどよいレベルの協力関係が自発的に生じるようになっているのかもしれぬ。

理想像どおりに行動するやつは、実は最適じゃないのだろう。しかし、ほっとくと人間は利己的に流れるから、逆方向の行動をするやつのことをほめたたえることで自分らのバランスを保っているのかもしれない。