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ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

いまの大学のよいところは、底抜けの自由。ある意味、ちょっと無理してでも奇抜なことをするのが正しいような、そういう雰囲気。ただし単に奇をてらうのではなく、究極の目的として普遍的な知の探求や社会への還元といった深みがあるものが認められるような。

ただいま、学内の「学際コンテスト」に応募しています。こころセンターのセンター長に紹介していただいて以来仲良くさせてもらっている宗教哲学の先生と、筋金入りの進化生物学者すなわちガチの無心論者である私からの共同の研究提案。人間の感情に、「畏敬の念」みたいなもの、宗教的感情の根源みたいなものがどうやって生じるのかを、森をケーススタディとして考えてみるというすてきなプロジェクトです。

さらに、ご近所の芸術系の大学からもこの研究提案に参加していただいています。植物をみてうつくしいと思う気持ちを美術家の立場で考えてる先生。森の独特の空気感、たとえばいやしとか荘厳さとかを出す要因のひとつとしての音環境を調べてる先生。

こうやって多面的な研究をすることで、人間のこころにとっての森ってなんだろう、ということを調べてみたいのです。だって、森に感動し、森を愛し敬う気持ちから出発しなければ、僕らは自然保護なんて考えようとしないだろうし、森を研究しようなんて動機も生まれないだろうから。

そもそも僕ら生態学者は、植物の生理や動物の行動なんかは詳細に調べるくせに、それと対峙するわれわれ人間の気持ちをおろそかにしすぎな気がします。「この森にこういうめずらしい植物がいます」という情報を淡々と調べ発表するのが生態学者の稼業として常態化していて、その情報に接した人が感動するかどうかはその人まかせになっているのです。いやもちろんそういう研究も必要なんだけど、それだけじゃない気がする。

人類(Genus Homo)が生まれて約200万年。その大半は狩猟採集でくらしていた。農耕牧畜がはじまって約1万年だから、99.5%の期間は狩猟採集だったということになる。そしてその期間に、森に対する感情の根源みたいなものが生じ、根付いたように思う。うん、一生海を見ずに死んでいく人は多かっただろうが、一生森を見ない人は少ないよね。草原地帯でも、要所要所に樹木の群落はあって、人のくらしに重要な役割を果たしていただろうから。

食料や、雨風日光からの避難所、安全な隠れ場所を提供してくれる森。そこにいて気持ちいいのは当然だと思う。森を心地よく思えない人は、森からさまよい出てのたれ死ぬ可能性が高くなり淘汰されてしまう。というわけで現代人の僕らにも、森を愛して生きのびてきた人たちの遺伝子が脈々と受け継がれているのである。