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ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

The end of innocence (2013/11/01)

純粋に私的な理由で新幹線に乗るのはいつ以来だろう。会期終了直前の瀬戸内芸術祭に向かっている。現代アートの作家たちに共通する「思考」というか「目標」というか、最近なんとなく分かってきたような気がする。彼らはあえて、アーティストとしての主観性を極力排して行う実験をアートと呼んでいるようなのだ。たとえば名和晃平はネットショッピングの検索にひっかかった商品を買って作品とする。これは、その作品の存在そのものが「現代性」「時代性」であり、作者の思いもよらなかったものが検索で見つかること自体が表現したいテーマなのである。古くはアンディウォーホルは、「機械になりたい」と言った。人間としての意思を失い機械として紋切り型の何かを大量生産し続けること、これがアートなのである。前時代のアートの真逆をいくのである。
僕はサイエンティストだが、彼ら現代アート作家の思考には共通点を見出すことがしばしばある。僕も、自然や、宇宙や、生物や、原子にひそむ「法則」といったものを、自分の主観をもちこまずにとらえ、表現したいと思うからだ。人間とか社会とかを見るときは、人々の本来の営みとか、人間の本質とかが気になる。これらは、人々のinnocentな部分に現れるような気がする。アートに描かれるからとか科学の検体になるとかといった作為の仕組まれていない素の行動や内なる衝動が見たいのだ。いやこれは民芸運動のようなinnocence礼賛ではない。おろかで非効率な部分も含めて、人の本質をさらけ出してやりたいと思っているのだ。
経年変化について。自分自身、次第に年を取り、変化してるところも変化してないところもある。人間も生物だから、やがて朽ちていくだろう。やがて朽ちていく人々の生産物も、やがて朽ちることだろう。巨木が切り倒され、金ピカの仏像になる。それが千年たった今、塗装ははげおち、シロアリにむしばまれることで、ふたたび木の本性を現している。金ピカ時代の仏像は、ぶっちゃけ木造だろうが銅造だろうがあまり見た目は変わらないんだけど、朽ち果てる直前の瞬間、木の本性をさらけ出してくる。これが見たかったんだ。ほろびかけているものに、なぜかグッとくるのだ。
現代におけるアーティストは、コントロールしてinnocenceや経年変化を演出し表現し観客に提供するものだと思う。技術者と表現者の違いはそこにあるんじゃないかと思った。