ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

科学と宗教、またはソフトウェアとハードウェア

仏教の教義の根本に三法印というのがあり、そのなかに「諸行無常」という有名な思想がある。平家物語のイントロにも使われる、日本人になじみの深い思想である。「諸行無常」とか「諸法無我」とか「色即是空」とか、仏教の教義は基本的に、今あるものはやがて消えてゆく、そしたら何も残らない、自己に対する執着はむなしい、といったタイプの教えである。

この仏教の思想を、科学の視点から考えてみる。科学的にいうと、これらの教義は現実の一側面を表現しているという意味では正しいのだが、重要な別の側面が欠落しているという点で、「生命とは何か・人間とは何か」の本質的な理解はできていない、となるだろう。

私たちの体は、無数の原子が寄り集まって形作られたもので、体を構成する原子は絶えず徐々に入れ替わり続けている状態(食事して排泄するからそうですよね)だが、一体性を保っている。私たちが死ねば、その一体性は失われ、原子は焼却炉の煙突から大気中にばらばらに放出されていくのである。こういう意味で、ハードウェアという視点からは人間は諸行無常なのである。人間の体はハードウェアである。ハードウェアというのはいつかこわれる。諸行無常なのである。

一方、20世紀の偉大な生物学者であるリチャード・ドーキンスはその著書「利己的な遺伝子」のなかで、生物は遺伝子の乗り物であると力強く言い切った。遺伝子はソフトウェアである。設計図のようなものである。設計図は、それが印刷された紙自体に価値があるのではない。インク自体に価値があるのではない。インクの特定の配列が意味を持ち、その配列自体が、価値の根源なのである。だから、設計図をうまく複製すれば、もとの設計図の意図を、あまさずコピーすることができるのである。もとの設計図のインクとは違う原子であるけれども、その内容はコピーできるのである。これがソフトウェアなのだ。

たとえば、奈良時代の文学である万葉集のなかのすばらしい歌。これはソフトウェアである。最初にその歌が書き記された紙(もしくは竹簡)は失われてしまったが、歌は書き写され、現代に残っている。そしてその歌の価値であるメッセージは、(誤写がなかったとすれば)現代まで伝わっているのである。

一方、奈良時代の美術の傑作である興福寺の阿修羅像。これはハードウェアなので、いつかは無くなってしまうことだろう。現代の技術で精細な三次元データを測定したり、名工の誉れ高い仏師が模造を試みたりしても、そのような複製は、構成している原子がもとのものと違うという一点のみをもってしても、オリジナルの完全なコピーとは決して言えないのである。

遺伝子というソフトウェアは、自分の乗り物(ハードウェア)である生命の体をデザインし、その個体の一生のうちに繁殖のための器官が形成されるようにし、繁殖のための本能を制御している。そして、いろんな個性を持った個体のなかで、もっとも繁殖がうまい個体がたくさんの遺伝子を残し、自分が運んできた遺伝子を次世代に伝える。そしてまた、次世代でも同じことが繰り返されるのである。

生命は、繁殖に役立つ乗り物をつくれる遺伝子が次世代に残る、という壮大なゲームを何十億年もやっているのである。このゲームからおりることはできない。おりた生物は子孫を残せないから絶滅するだけである。ちなみに、「繁殖がうまい」というのは総合的な評価である。単に卵をたくさん産めばよいというわけではない。繁殖するためには、自分が子供のころに死なずに生き残る能力も必要だ。一部の生物にとっては、繁殖相手を選ぶセンスや生まれた子供を世話する能力も必要だ。

ソフトウェアである遺伝子は、乗り物である個体が死んでも、その子孫さえ残っていれば、永遠に存続するポテンシャルを持っている。事実、私たちの体には、数十億年もまえのバクテリアの遺伝子も残っていて、いまだに生命の維持に欠かせないはたらきをしている。ミトコンドリアというやつである。シーラカンスは、何億年もシーラカンスのままで続いている。シーラカンスの個体は数十年もたてば死んでしまうんだけど、その遺伝子はシーラカンスの設計図を数億年も引き継いできたのである。

ハードウェアとしての人間の個人は滅びても、その個人が運んできた遺伝子は次世代に続く。続かせるのが生命の存在意義である。「ハードウェアは滅びるけどソフトウェアは続く」というゲームに生命が乗っていること。人間もこれに乗っていること。仏教はこれを教えてくれない。いわゆる「煩悩」の根源は、生命が駒として動いているこのゲームの本質にあるのではないかと私は思っている。こういうことは、仏教は教えてくれない。仏教の教えをいくら学んでも不完全燃焼にしかならずもどかしい人間の生き方というものを、科学は教えてくれるのである。煩悩はべつにわるいことではなく、なるべく遺伝子を残そうとする私たちを叱咤激励するために、遺伝子が仕組んだものなのだ。煩悩のない人間は、遺伝子を残そうとしないのだから。