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ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

むかし秦の李斯が学問をこころざしたときの逸話。トイレに暮らすネズミは、食べものといえば人の糞尿だから不衛生のうえ栄養不良で痩せている。そのうえ人が用足しに入ってくるたびコソコソと逃げかくれしなくちゃいけない。そしてネズミ同士で糞尿を奪いあう地獄絵図を形成しているのである。一方、穀物倉庫のネズミは、栄養豊かな食べものが手軽に大量に手に入る。そのうえふだんは人の出入りもないから、びくびくせずにのんびり暮らしている。


ここで質問。この二種類のネズミは、もともとの賢さとか強さとかの能力に差があったから、境遇もそれに釣り合うものになっているのだろうか。


答えは否。李斯も僕も全力で否と叫ぶのだ。能力なんて関係なくて、単純に環境が良いならリッチに、悪ければ貧しくなるだけである。そしてどの環境がデフォルトでそいつに与えられているかは、言ってみりゃ偶然。


金持ちのボンボンと苦学生の対比という図式みたいに持って生まれたもので差がつく場合は仕方ない。問題なのは、ともすると、環境を変えようと思ったら変えられるのにあえてトイレのような状況でひたすらベストを尽くすような人が多い。そしてそういう姿勢がむしろ世間で褒められたりするのである。


ある種のタイプの人間がネズミと違うのは創造性。たとえトイレに暮らしていても、その世界しか知らなくても、他の世界を構想し実現に向かうことが可能なのである。しかし人間にもべつのタイプすなわちネズミタイプがいることもまた事実で、彼らには置かれた環境の外のことを考えるという発想すら生まれないのである。


「がんばりが評価されないのはがんばりが足りないから?」この思考一辺倒ではいくらがんばってもうまくいかないこともある。


逆に、「じゃあ転職したらうまくいく?」「海外留学したらうまくいく?」それも分からない。


成功に必要なのは、才能と努力と、環境を変えるタイミング、つまり天運をつかむ姿勢である。こう考えると、才能と努力があるのにいまいち成功してない人は、天運をきちんとキャッチできてないのではありますまいか。逆に、星飛雄馬みたいに野球キチガイのオヤジがいるという環境に生まれついたならば、野球をやるぶんにはそれなりのレールが敷かれてるので三番目の能力はさほど要求されないのである。


まあこんなわけで、単純な「為せば成る」的思考ではどうにもならないこともあると、李斯はクールに指摘しているのである。一般的に美徳とみなされる思考回路からはかなり距離を置いた思想だけど、これ大事。


ちなみにこの考え方は、自分の栄達という利己的目標のための方法論である。その考え方に沿って、努力と才能と判断力に富んだ李斯はすごく出世したんだけど、晩年、利己的判断からワルモノに妥協し、そのうえそのワルモノに裏切られ頃され、結局財産も子孫もすべて失うという結果にいたったのである。もし彼に、大義とか人民のためとか、ひとつ筋の通った基準があったならどうなったのだろう。興味は尽きないのである。


ちなみに私の晩節が尊厳と栄光にあふれるか恥辱と貧困にまみれるか、それは分からないのである。