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ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

サイトスペシフィックなアート・仏像・そして標語

現代アートにはサイトスペシフィックなものが多いのでおもしろい。古典的な芸術は、作品が単品で独立していて、それだけで世界と勝負している。たとえばフェルメールの絵。こういう絵画は、小さくて薄っぺらいキャンバスにいくらかの絵の具をこすりつけただけ、というシンプルな構成で出来ている。しかし名画は、この最小構成で世界中の美術館に出張して、各地で人々に感動を与えている。どの美術館で見ても、ライティングや壁の色が少し違っても、フェルメールフェルメール。額の中だけで勝負できるのです。

いっぽう現代アートは、まわりの環境をひっくるめないと作品として成立しないものが多い。たとえば瀬戸内海の直島・豊島・犬島あたりの現代アート。その地域の歴史、風土、見える海、人々の職業や古民家などの環境のうえに成り立つアートなのである。現代アートはおもしろいし、僕は大好き。しかし、直島の古民家アートを六本木の美術館に移築したのでは、アートとして成り立たなくなる。だから、直島の現代アートを見るには直島に行くしかない。非常にサイトスペシフィックなのである。

そう考えると、仏像のサイトスペシフィック性って、ちょうど中間あたりに位置すると思う。国宝級のすごい仏像、たとえば興福寺の阿修羅さんなどは、東京国立博物館で展示されても立派に素晴らしく、存在の意味と歴史の重みが伝わってきた。ボストン美術館収蔵品の快慶の菩薩さんにいたっては、海外でもどこで展示されても素晴らしさを発揮する超一級品。まさに古典的な名作である。

ところが、運慶の円成寺大日如来像は、どうも様子が異なるのである。僕がはじめてこの大日さんと対面したのは、その当時住んでいた横浜市金沢区の博物館での特別展示。ガラスケースのなかにお行儀よく鎮座している大日さんは、よく出来てはいるのだが、どことなく「借りてきた猫状態」で、予習の段階で相当期待の高まってた僕にとっては、正直あっさりしすぎた初対面だった。

あれから約2年、最近僕は奈良の円成寺を訪れる機会があり、大日さんと再会を果たした。奈良市内からドライブして、曲がりくねった道を小一時間走って少々不安になってきたころに円成寺に到着する。季節は厳冬期で、寺の前の池も半分凍結している。しかし天気は快晴の午後。さほど広くない山裾の境内、うすぐらい塔のなかに大日さんは座していた。智拳印を組んで、眼光鋭くこちらをにらみつけている。腕にも足にも、力がみなぎっている。僕は瞬間感じた、「大日さんはこの場所で宇宙を動かしている」。まさに今、仕事をしている大日さんに会ったのであった。これは、博物館では得られない、まさにサイトスペシフィックな体験。仏教風にいえば、何かを感得したのである。

 

そしてこの標語である。始業時間が8時10分であるこの学校の校区のみに効果を持つこの標語、まさにサイトスペシフィック。「飲んだら乗るな」みたいな普遍的な標語には持ちえない凄味のようなものを、まじめに感じます。こういうのに出会えるから、旅が大好き。旅という行為自体、サイトスペシフィックな現代アートだとまじめに考えています。

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