ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

political correctness vs. science

自然分娩で生まれなかった子が、「自分は愛されていないのではないか」なんて考えることになったら、この先生の発言は、politically incorrectである。他方、scienceは、人を傷つけたり悲しませたりする事実を告げることが多々ある。この先生の説が正しいかどうかについて現時点で私はニュートラルだけど、「この先生の説が正しい」と証明される可能性もあるわけで、それも心づもりしておく必要がある。子どもたちは生まれた時点ではおなじスタートライン、あとは教育と本人の努力がすべてを決める、というのは「新生児はまっさらな白紙」という仮説であり、教育学の人たちは、意識無意識にこの仮説に基づいていることが多い。他方、生物学的には、新生児でも生まれながらにして差異がある、と考えるのが自然なことだ。それがふつうの動物なら当たり前のことであるが、相手が人間となると、political correctnessが問題となるのである。

 

<不適切発言>「自然分娩の方が愛着」 小学校教諭、授業で (毎日新聞) - Yahoo!ニュース

・「全体の語感が似ている」という申し立て。確かにブランドイメージとして大事なものです。

・一方で、「三浦」は似ていても日本語だから別物、という裁判所の判断も気が利いている。

・海外ブランド名に似た日本語を用いてパロディをする、というのがこれからはやるかもしれません。

 

過去にはパロディー商品をめぐり、注目を集めた民事訴訟がある。28年4月、スイスの高級時計「フランク・ミュラー」のパロディー商品名「フランク三浦」を商標登録した大阪市の会社が、この商標を無効とした特許庁の判断を取り消すよう求めた訴訟で、知財高裁はフランク三浦側の勝訴を言い渡した。そもそも、特許庁は「全体の語感が似ている」としてミュラー側の申し立てを認めていたが、知財高裁は「連想はするが、明らかに日本語の『三浦』が含まれる」「多くが100万円を超える高級腕時計と、4千~6千円程度の『三浦』を混同するとは到底考えられない」と指摘。フランク三浦を商標として登録できると判断した。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170111-00000534-san-soci

コンピュータ将棋と羽生さんの誤算

羽生さんはこんなことを言っていた。

 

ではなぜ羽生は強くなる一方のコンピュータに対して何も恐れないのか。 それはあるインタヴューでの答えの中にある。将棋がコンピュータによって完全解明されてしまったら、どうするんですか。 という質問に、羽生はケラケラ笑いながらこう答えた。 
「そのときは桂馬が横に飛ぶとかルールを少しだけ変えればいいんです」

 

週刊ポスト2014年5月2日号
http://www.news-postseven.com/archives/20140424_252628.html

 

しかし現実には、桂馬が横に飛べるようになると、これまで人間が何百年もかけて築き上げてきた定跡とか大局観とか勝負勘とかが使えなくなることを意味する。つまり、将棋は別の新しいゲームとなる。ということは、人間とコンピュータは、「よーいどん」で同時に新しいゲームのたたかい方を競いはじめることになる。そうなると、コンピュータが圧倒的に有利なのだ。人間のアドバンテージはこれまでの歴史という財産であり、それがなくなると、これまで以上にコンピュータにかなわなくなる。

 

また羽生さんは、こんなことも言っていた。

 

もし、私が将棋の神様と対局したら、香落ちでは木っ端みじんにやられてしまう。角落ちでやっと勝たせてもらえるだろう。

 

『決断力』(角川書店、2005年)より

 

これも現実的には、楽観的過ぎると言わざるをえない。「将棋の神様」とは、将棋が完全解明されたときの、ベストな指し手のことを指すと考えてよいだろう。角落ちならば、たとえ相手が常に最善手を指し続けたとしても、その角落ちのアドバンテージを保ったまま勝てるだろう、という意味である。ずーーっと「人間の将棋界」で第一人者だった羽生さんがこの発言をするのは無理もない。なんせ、自分より強い相手に会ったことがないんだから(なんとか互角程度の相手はいたとしても)。

 

ところが、近年のコンピュータ将棋ソフトの棋力の向上はすさまじい。去年の自分に7-8割勝つようなペースの向上を毎年遂げているのである。棋力を客観的・機械的に表現する方法として、レーティングがある。優秀なコンピュータ将棋ソフトは、レーティングにおいてすでにトッププロ棋士に角落ち程度の差をつけているのである。

 

ならば、現在のコンピュータ将棋ソフトは、「ほとんど神」の領域に近づいているのだろうか。答えは否。将棋の完全解明に近づいているならば、棋力向上のペースはごくゆるやかになる。「去年の自分に7-8割勝つ」ようなペースでの棋力向上は起こり得ないのだ。

 

よって、「将棋の神様」は、現在のコンピュータ将棋ソフトよりさらに高いところに存在していると考えられる。そうならば、人間のトップは、これまで考えていたよりもずっと「弱い」、つまり将棋の完全解明からは程遠いということになる。

 

これは羽生さんにとっては誤算かもしれないけど、将棋を愛する者にとっては朗報とも言える。これまでは、将棋というゲームは、「羽生さんなら角落ちで勝てる程度の奥深さ」だったのが、「羽生さんが二枚落ちで挑んでも勝てないほど奥が深い」ということが判明したからである。

 

 

人生は3万日

人の寿命が80年とすると、80x365.25で、29220日を過ごすことになる。約3万日である。これは長いか短いか。

僕は、これはわりと短いと思う。そして、人生の1日も無駄にしたくないと思う。それは3万分の1の貴重な時間だから。

300万円の貯金を持っている人は、3万分の1の100円をドブに捨てるようなことをするだろうか(いや、しないだろう)。

同様に、人生の3万分の1を無駄に過ごすのは嫌だ。そして、誰かの3万分の1を無駄にするのも嫌だ。

僕は、見たいテレビ番組があるとそれを録画して、あとから1.3倍速・CM飛ばしで見る。時間を無駄にしないためだ。

本を買っても、つまらなければ途中でどんどん捨てる。時間を無駄にしないためだ。本の代金よりも、自分の人生の時間のほうがずっともったいないのだ。

ろくでなし子問題:peer review vs. governmental review

ろくでなし子の表現に、警察・検察・裁判所などがかかわってきて規制するのは反対である。それは行政や司法による表現の自由への介入であり、governmental reviewが常態化するとそれは広範囲な検閲となる恐れがあるため、そのような規制は反対である。

しかし一方、ろくでなし子の作品がなんらかの価値を持っているかというと、僕はそう思わない。controversyを生む芸術作品は、センス良く問題の本質をえぐっていなければならない。たとえばデュシャン会田誠のように。鑑賞者は、腹立つと同時に、こりゃ一本取られたワイ、というように認めたくなるようなもの、それがすてきな炎上芸術というものである。ろくでなし子からはそれを感じられないのである。

僕にとってろくでなし子は「ただのくだらないもの」であるから、司法や行政で葬りさるのではなく、自由意思を持った一般人たちが選択しないという方法で、人から相手にされないようになるべきだと思う。それは、凡庸な芸術家が世間から相手にされないのとおなじことである。凡庸な芸術家からは罰金を取る、というような政治の介入は必要ないのである。民衆に評価されて、芸術家は人気が出たり凋落したりする。これは、いわばpeer reviewである。

僕にとってはくだらないろくでなし子であるが、彼女を評価する人の存在を、僕は否定しない。民衆にはいろんな人がいてもいい。むかしアメリカの政治家が、「私の論敵が発言する機会を、私は全力で守る」というようなことを言った。これこそが理想的な姿勢だと思う。そして僕としては、ろくでなし子のくだらなさが理解できるほどに社会のリテラシーが発展すればよいと思っているのである。

人間の将棋に「好手」は存在しない

将棋の戦況を数値化する「評価値」。これは、その局面からお互いに最善手をさし続けたときの勝利の確率を表現しているものだ。しかし、人間は常に最善手をさし続けることはできない。コンピュータという「神」の視点から見たとき、もはや人間は「好手」をさすことはできない。つねに最善手が当たり前なのだから。好手というのは、対戦相手または傍観者が気づいていないというのが前提であって、コンピュータがそれに気づかないというのはなかなかありそうもないのである。

と考えると、人間同士の将棋は、「悪手をさしたら負け、間違ったら負け」というゲームである。ならば、相手が間違えそうな方向に導いていく、という戦略は、対人戦では有効であろう。棋理すなわち最善手を追究する将棋はコンピュータに任せ、人間同士は相手の間違いを誘うゲームをしたほうが、勝率が高くなると思われる。

このようなわけで、コンピュータから見た勝利確率すなわち評価値がおなじでも、人間同士の勝利確率はかい離することはおおい。だから対人戦の戦況を評価するには、従来の評価値に加えて、「間違えやすさ」を表す指標をつくるのがよいのではないだろうか。以上わたくしの持論である。