ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

人生は3万日

人の寿命が80年とすると、80x365.25で、29220日を過ごすことになる。約3万日である。これは長いか短いか。

僕は、これはわりと短いと思う。そして、人生の1日も無駄にしたくないと思う。それは3万分の1の貴重な時間だから。

300万円の貯金を持っている人は、3万分の1の100円をドブに捨てるようなことをするだろうか(いや、しないだろう)。

同様に、人生の3万分の1を無駄に過ごすのは嫌だ。そして、誰かの3万分の1を無駄にするのも嫌だ。

僕は、見たいテレビ番組があるとそれを録画して、あとから1.3倍速・CM飛ばしで見る。時間を無駄にしないためだ。

本を買っても、つまらなければ途中でどんどん捨てる。時間を無駄にしないためだ。本の代金よりも、自分の人生の時間のほうがずっともったいないのだ。

ろくでなし子問題:peer review vs. governmental review

ろくでなし子の表現に、警察・検察・裁判所などがかかわってきて規制するのは反対である。それは行政や司法による表現の自由への介入であり、governmental reviewが常態化するとそれは広範囲な検閲となる恐れがあるため、そのような規制は反対である。

しかし一方、ろくでなし子の作品がなんらかの価値を持っているかというと、僕はそう思わない。controversyを生む芸術作品は、センス良く問題の本質をえぐっていなければならない。たとえばデュシャン会田誠のように。鑑賞者は、腹立つと同時に、こりゃ一本取られたワイ、というように認めたくなるようなもの、それがすてきな炎上芸術というものである。ろくでなし子からはそれを感じられないのである。

僕にとってろくでなし子は「ただのくだらないもの」であるから、司法や行政で葬りさるのではなく、自由意思を持った一般人たちが選択しないという方法で、人から相手にされないようになるべきだと思う。それは、凡庸な芸術家が世間から相手にされないのとおなじことである。凡庸な芸術家からは罰金を取る、というような政治の介入は必要ないのである。民衆に評価されて、芸術家は人気が出たり凋落したりする。これは、いわばpeer reviewである。

僕にとってはくだらないろくでなし子であるが、彼女を評価する人の存在を、僕は否定しない。民衆にはいろんな人がいてもいい。むかしアメリカの政治家が、「私の論敵が発言する機会を、私は全力で守る」というようなことを言った。これこそが理想的な姿勢だと思う。そして僕としては、ろくでなし子のくだらなさが理解できるほどに社会のリテラシーが発展すればよいと思っているのである。

人間の将棋に「好手」は存在しない

将棋の戦況を数値化する「評価値」。これは、その局面からお互いに最善手をさし続けたときの勝利の確率を表現しているものだ。しかし、人間は常に最善手をさし続けることはできない。コンピュータという「神」の視点から見たとき、もはや人間は「好手」をさすことはできない。つねに最善手が当たり前なのだから。好手というのは、対戦相手または傍観者が気づいていないというのが前提であって、コンピュータがそれに気づかないというのはなかなかありそうもないのである。

と考えると、人間同士の将棋は、「悪手をさしたら負け、間違ったら負け」というゲームである。ならば、相手が間違えそうな方向に導いていく、という戦略は、対人戦では有効であろう。棋理すなわち最善手を追究する将棋はコンピュータに任せ、人間同士は相手の間違いを誘うゲームをしたほうが、勝率が高くなると思われる。

このようなわけで、コンピュータから見た勝利確率すなわち評価値がおなじでも、人間同士の勝利確率はかい離することはおおい。だから対人戦の戦況を評価するには、従来の評価値に加えて、「間違えやすさ」を表す指標をつくるのがよいのではないだろうか。以上わたくしの持論である。

読解力の低下:<HKT48>「女性蔑視の歌詞だ」新曲に批判

<HKT48>「女性蔑視の歌詞だ」新曲に批判

曲は4月13日に発売された。「頭からっぽでいい」「世の中のジョーシキ 何も知らなくても メイク上手ならいい」と見た目重視の女子の心情を歌う。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160517-00000076-mai-soci

 

シュールなブラックジョークで逆説的に問題を提起する。これは昔からある手法だ。たとえばEagles。Life in the fast laneのように、現代人の心理を見つめ、それになりきって歌う。Eaglesの真意は現代人に対する批判なんだけど、歌詞の内容は病んだ現代人の心理を淡々と語るだけ。聞く人がそれを自分自身で解釈し、作詞家の意図に自発的に気づき、現代人のあやうさに気づくようにするしかけである。

「女の子は頭からっぽでいい」って思ってる女子は確かに存在するだろうけど、それはさすがに少数派だろう。これは秋元さんからのブラックジョークなのである。この歌を聞いて、逆説的に「勉強しよう」と思う女子が出現するための刺激なのである。もちろんこの歌詞を聞いて、ほんとにバカになってしまう女子も少数派いる可能性も否定しない。それはそれとして、より多くの女子は、バカでいつづけることに不安を感じ、勉強するようになってほしい。そういう意図なのではないだろうか。

リーガルハイというドラマがあって、主人公はモラルを欠いた弁護士である。この存在自体がブラックジョークであり、視聴者は、こんな人にはなりたくないな、しかしここまで、すがすがしいくらいにカスだと、感情移入する側面もあるな、みたいな反応をする。くだんのHKTの歌詞に対しても、同様に反応すべきなんだと思う。

薄笑いを浮かべながら歌を聞こう。すがすがしいくらいのカスを愛でてみよう。ロリコンじゃなくても会田誠がつくるロリコン的作品の鑑賞が可能であるように。

もっと人間に絶望しよう

「人間に対する絶望感が足りてないんじゃないか」と、学生たちや同僚たちを見ると思う。

「人間は基本、僕のことを分かってくれない」

「人間は基本、僕の都合を考えてくれない」

「人間(特に先生や上司)は基本、非効率なこと(ときに無駄なこと)を要求してくる」

しかしそれでもなお、僕らは自分ひとりでは生きられない。とかくこの世は住みにくい。人の世がいやなら、人でなしの世にでも行くしかないのだろうが、そうなるともっと住みにくかろう。夏目漱石もこういうふうに言っている。

そんなわけで、僕らは人間に絶望したとき、過剰な期待に起因する失望から解放される。ときたま奇跡的に、僕らにやさしくしてくれる人間に出会うときがある。あるいは、いつもはイヤな人間が、ときにやさしくなるときがある。そのとき、その「有難さ」というのが実感できる。「ありがたい」という日本語は、基本あり得ないことだという絶望がベースにあり、それが奇跡的に生じたことに対する感嘆と感謝なのである。

もちろん、いつも僕にやさしくしてくれたり、僕を理解してくれたりする人も、少しだけいる。だから僕は、その人の存在自体が奇跡であり、大事にしたいと思う。僕は基本的に人間に対する絶望感につつまれているから、その感覚がまひすることはない。いつでもこころの底からありがとう、って言うし、それはこれからも変わらないんじゃないかと思う。取り立てて人間的にとりえのない僕だけど、その卑屈さの裏返しで、こういう気持ちを持ててることはちょっとうれしい。

誤った解釈を堂々と掲載する雑誌-相関と因果は、似ているようで大ちがい

わりとまじめな有名誌なのに、誤った解釈を堂々と掲載してしまう。

 

 

高学歴女性の人生を狂わす「仕事と家庭の両立」できる・できない3大分岐点 (プレジデント) - Yahoo!ニュース

 

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160411-00017767-president-bus_all&p=1

 

引用---------

 

アンケート調査結果では、まず第1子出産後、同じ会社で就業継続した女性と両立を希望していたがやむなく離職した女性の双方に、「家事・育児負担割合」を比べました。すると、配偶者(夫)による家事や育児の負担状況に差が見られることが明らかになりました(図表1)。

 「妻による“育児”負担割合が80%以上」と回答した割合は、同じ会社で就業継続した女性は56.1%、一方、離職した女性は77.3%でした。夫が家事メンであるほど就業継続している女性が多いのが特徴的です。

 では、家事に関してはどうか。

 「妻による“家事”負担割合が80%以上」と回答した割合は、同じ会社で就業継続した女性は44.5%で、離職した女性は86.4%でした。離職した女性は、夫の支援がほとんど得られていなかったことが分かります。

 

引用おわり----------

 

この記事の解釈は、因果関係と相関関係を理解していないと思われる。

この記事では、

「夫が家事を手伝わない」-->「妻が離職せざるを得ない」

という因果関係にしか注目していない。しかし実際には、

「共ばたらき時代の夫婦の家事負担は平等だった」-->「妻が出産を機に離職した」-->「すると妻は、自分は専業主婦になったんだから、とうぜんのなりゆきとして家事を負担しようと思った」

という図式もあるはずだ。

だいたい、夫がフルタイムで働いていて、妻が専業主婦をやっていて、家事負担割合が共ばたらきのときと変わらないわけはない。そんなの逆に異常でしょ。

 

プロの学者は、こういう記事を読むと自然と、因果関係と相関関係のちがいを意識する。この記事を書いた人も何らかのプロならば、これを意識しておくべきだ。単に相関関係があるからといって因果関係があるとは限らない。因果関係を客観的に立証しないと、こういう記事を書くべきじゃない。

日本のマスコミが苦境に立たされていることの一因は、こういったかんじでのマスコミ側のクオリティの低下もあるように思う。まずは、良い記事を書き、良い記事を掲載する努力をすべきであろう。

日本の経済構造の苦しみ

戦後から高度経済成長期にかけて、日本の人口ピラミッドは「ピラミッド型」。いや、それ以前の、明治や江戸にかけてもピラミッド型だった。戦後や明治は人口増加の時期だからピラミッド型になるのは当然。江戸時代に人口は増えなかったけど、医療や衛生の貧弱さから寿命をまっとうできないことがむしろふつうな時代だったから、ピラミッド型になっていた。

ピラミッド型の社会では、多数の若者を少数の中高年が支配し指図するという構造がぴたりとはまる。儒教的な年功序列社会だ。しかし少子化と人口減少のフェイズを迎え、ピラミッド型から煙突型、へたすりゃ逆ピラミッドになっていく。これでは年功序列は成り立たない。若者の労働力を搾取するというビジネスモデルは破たんしているのだ。

日本に経済力があった時代には、外国の安い労働力を搾取する構造に移行することもできた。しかし今となっては、日本はそんなに豊かな国ではない。そう、崩壊は着実に近づいている。