ぼくのほそ道

サイエンスとかアートとか自然とか仏像とか生物とか・・・。僕の知り合いの人は読むの非推奨!

コモディティー化と付加価値

「製品がコモディティー化すると利幅が減る、だから付加価値をつけて競争力を高めなくちゃいけない」

こういう理屈のもとにメーカーはがんばってるんだけど、日本の企業の発想の陳腐さは恐れ入る。たとえばカーナビに「盗難多発地域です。ご注意ください」としゃべらせたり、ボタンを押したら華麗なアニメーションを強制的に見せつけたり。・・・付加価値とはそういうことじゃない!カーナビ専用機は、すでにいろんな意味でスマホの道案内に負けている。

iPhoneのように日常生活を根底からくつがえす製品をなぜつくれないのか。真剣に考えてほしい。そもそもクリエイティブな製品のアイデアが枯渇しているなら、自発的に企業規模を縮小したり事業から撤退したり、ソフトランディングで質素な生活に回帰するような戦略を考えるべきだろう。

 

 

ホリエモン「寿司職人が何年も修行するのはバカ」発言 数か月で独り立ちの寿司はうまいか? (J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース

 

はじめてほりえさんと意見が合った気がします。修業には年数がかかるというイメージを植え付けるのは、安い労働力を確保するため。能力があれば時間は関係ありません。岡本太郎もこういうことを言っていました。「10年修業しないとこの芸術の良さは分からない、部外者が口出すな」みたいな権威主義者がきらいなんです岡本さんは。

いや、たしかに時間は無意味ではない。自分を例に考えると、自分が12歳のときより15歳のときのほうが成長していて能力が高い。

しかし、個人間の能力の違いというものは圧倒的で、12歳のときの自分は、15歳や30歳や50歳の他人より能力が高かった。「3歳の人間は100歳のカメよりかしこい(部分的には)」というのが僕の座右の銘です。

書く仕事が多すぎてたいへんだ・・・。ひとつひとつに使える時間と労力は限られる。とりあえずアイデアを、支離滅裂でもいいからひたすらタイプしていく。何度も何度も読み返しては、文章に手を入れ、文法を修正し、ブロックを並び替えていく。するとある瞬間、単なるメモの羅列が、文学作品としての味わいを持ち始める。全体のトーンやメッセージがつながり、一体感をかもし、充実感を高める。こういう状態を超えたものじゃないと、世には出したくない。できるだけこの一線は、守っていこうと思う。

よくわかる、なぜ「五輪とリエージュのロゴは似てない」と考えるデザイナーが多いのか?(深津貴之) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

僕も、オリンピックのロゴだけが問題だったときは、パクリではないと思っていた。そして今でも、パクリかどうかの話は水掛け論になるので、「パクリだから撤回すべし」とは言わない。

ただし、サントリーのトートバッグの件は、完全なるパクリである。これについては異論はないだろう。

そして、信用を重んじるこの業界では、「いちど信用を失った者は、ほかの仕事からも干される」というルールがある。

たとえば、公共事業の公募では、過去に別件で不正のあった業者は入札が許されない。「前回は不正したけど、今回はまじめにやるから」という理屈は通じないのだ。

同様に佐野氏も、「トートバッグはパクリだったけど、オリンピックは違うから」という理屈は通じない。

よって、「過去に別件で不正をした佐野氏だから、オリンピックもやめるべし」ということになる。だから、オリンピックのロゴがパクリだろうがオリジナルだろうが、佐野氏のやつを使ってはいけないのである。

人間関係とドキドキ感

「この人、気が合いそうだな」って直感で分かる人と知り合って、お話しして、だんだん仲良くなっていくときの高揚感。初対面ではお互いの話は、基本的にすべて初耳。だから会話は、フルパワーで鉄板ネタの応酬となる。とうぜんおもしろい。ドキドキするのだ。

ところが仲良くなってしまうと、いずれ話すネタが尽きてくる。おなじ会話が何度も出てくる。つまんなくなってくる。

そんな危機を超えて仲良しで居続けるために必要なのは。話を聞く力、変化して学び続けようという姿勢、知識よりも洞察力。ひたすらむかし話に花を咲かせるだけの仲良しクラブはまっぴらで、それならひとりでいるほうがずっといいのである。

右傾化と、それに気づかぬ民衆

最近テレビをつけると、「今日の中国おもしろ情報」みたいなのをやってることが多い気がする。中国人がやってるバカな行動をおもしろおかしく笑いましょう、みたいなコーナーである。これ、第二次世界大戦に負ける前の日本人のメンタリティとおなじである。国はちがえども、バカチョンカメラという表現に見られるような差別意識である。ひとむかし前の日本のマスコミにこんな傾向はなかったのに、最近のマスコミには、中国のことを安心して笑ってOK、あっちが日本を嫌うならこっちも笑ってやる、みたいな意識が見える気がする。そしてそれをふつうに視聴して麻痺していく民衆。

外国人が日本の優れた技術やら文化やらを学んで感動する、みたいなテレビ番組も多い。ひとむかし前は、外国の優れたことを日本人が学ぶためのテレビ番組のほうが多かったような気がする。それなら教養番組として成り立つといえるんだけど、「外国人が日本から学びました」という番組を日本人に見せて、いったいどうしようというんだろうか。満足させられるのは民衆の自尊心だけである。